トーティスから離れた南の森。
僅かに雲を残した青空の下、午後の陽ざしの射す中ひとつの毛束が舞っていた。
岩場を駆け上がる度に毛束は生き物であるかのように激しく踊り、
木々の間を走る姿は吹き抜ける蒼い風の様で、
絶えずその髪をなびかせてチェスターは一匹の獣を追っていた。

一寸先。
なかなか詰めるに詰められない距離を保ったまま、
彼の鼻先を、ボアは目指す場所へ一心不乱に駆けていた。
もちろんその場所の見当がつかない彼ではない、
おそらくボアの行き着く先は……そんな事を考えながらも追う足は止まらない。
彼もこの先の道を知らないわけではなかった。
以前にこの森で狩りをした際に、不本意ながら逃げられた事がある。
駆け抜けたボアの行き着いた先は、巣でも穴蔵でもない、なんでもない膝丈程度の茂みだった。
自分の腰ほども無い、あってもせいぜい膝丈程度のその茂みにボアは辿り着き、
恨みでもあるようにこちらをキッと睨みつけるのだ。

自分の先を走るボアが後ろ足をギキッと踏ん張った。
砂ぼこりを上げながら道を直角に曲がる。
(撒かれるかっての!)
彼も同じように踵に重心をかけ、ボアを追う。
駆け抜けるこの先は――
(あの茂みの群生地だ!)
ボアはあの茂みで自分を撒くつもりだ。
足に込める力が強くなる。弓をぎゅっと握りしめた。






            『仕掛けた罠と狩りの成果』






目の粗いザルで砂利を振るいにかけるようなものだとチェスターは思い返す。
遠い先まで覆い尽くす茂みまで辿り着くと、どのボアもそれを背にしてこちらを睨みつけていた。
それは追い詰められた最後の威嚇などではない。
睨みを利かせ、追い詰めたぞと勢い勇んだ人間が飛びかかって来るのを待って、
ボアは自分の体が傷だらけになるにもかかわらず茂みの中に飛び込むのだ。
ボアの毛は確かに硬い。
表皮も分厚く、とても繊細に出来ているとは言い難い。
その体を持ってして突きだす枝葉を突破する。そういうわけではないのだ。
突きだす葉はある。枝もある。
人間が茂みの上に誤って落ちたなら、体中赤い傷が無数につくだろう。
しかしボアは違う。
これまで駆けてきた速度を変える事無く、その中を目を見開き頭から突っ込んでいく。
人間では追い切れない自然のトンネル。
枝や葉が付くその下部分。
葉も、枝も生えない幹部分の伸びた空間が、年月をかけた彼等の遺産になっている。
ここまで来れば逃げ切る事が出来る。
睨む姿は、ざまあみろ、と自分達を追いかけた物達に勝利を宣言するようだ。
そこへこのボアは向かっている。
自然とボアの速度が上がってゆく。
しかし最後の角を曲がった所で予想だにしていなかった事が起こった。
さも嬉しそうに人間が叫んだ。
「おっと、残念! そっちは行き止まりだぜ!」


目のふちが痛くなるほどボアは瞳を見開いた。驚愕と、絶望とが小さな頭の中を占める。
茂みのトンネルが塞がれていた。
あちこちに開いた、中に続く入り口を、茨のように尖った見知らぬ枝が塞いでいた。
どうして、こんな枝が? ボアは自分のテリトリーで今まで見る事のなかった枝を凝視する。
泳いでいた視点が幹の根元に合わさる。
草だ。
草が幹の根元と茨の枝を結び合わせている。
罠か! 目のふちから溢れださんばかりの憎しみでボアは振り返った。
自分の真後ろに走り来る人間を、憎悪を込めて睨みつける。
生きてやる、生きて逃げ延びてやるという執念すら感じる程、強くチェスターの瞳を睨みつけた。
お前の思い通りにいかせるものか。
脚は勝手に駆けだした。本能が、生きるという執念が、ボアの駆ける脚を速くした。
しかしそれよりも早くチェスターが矢筒から一本矢を抜き取った。
弓を引き、ボアの行く先に向かって目を細める。一瞬、視線がボアから外れた。
「逃げようったってそうはさせねえっ!」
放った矢は勢い良くまっすぐ線を描き、ブツンという音を立てて近くの草を切った。
罠だ!
ボアの進行方向の鼻先を何かが下から上へと勢いをつけて掠めた。
あまりに近かったためボアはそれが何かはわからない、
けれど自分が確実に死という名の袋小路に追い詰められている事はハッキリしていた。
生きる為脚をどこかへ向かわせようと地面を蹴った――
いや、蹴ろうとしていたはずが、もんどり打って地面に腹の横を打ちつけ倒れこむ。
厚く盛られたぬかるみの上に、滑るようわざと木の葉が敷き詰められていた。
「クレス!」
チェスターが叫ぶ、叫びながらまたも背中の矢を弓につがえた、今度は罠にかけるためじゃない、
目がしっかりとボアの眉間を狙っている。
呼び声に茂みが蠢く「任せろ、チェスター!」
なんとかならないかとじたばたするボアの視界の隅で、先程撒いた金茶の頭が映り込む。
撒かせたと見せかけて罠におびき寄せていた?! 
駆けこんでくる影にボアは一声いなないて、必死で地面の泥を掻いた。









同日昼前。
罠をひとしきり仕掛け終えた二人は河原近くに昼食を摂るため腰を据えていた。
清水に手を突っ込むと凍るほどに冷えた水が肌にしみ、
それを我慢しジャブジャブと爪の先や手のしわに入り込んだ汚れを落としていると
「ったく、この手の青臭いのはどうにかなんねぇかなぁ」とポツリとチェスターがこぼした。
同じように横でさっきまで手を洗っていたクレスが「仕方ないよ」と滴る水滴を振るい飛ばした。
「あれだけたくさんの罠を仕掛けたんだもの、多少くらいつくさ」
爪の奥、肉のきわまで入り込む緑色。
なかなか落ちない、手のしわに添って染み付いた緑色に鼻を近づけて、
もう一度チェスターは眉間にしわを寄せた。「これのどこが多少なもんか」

「あっ! あったよチェスター。たくさん生えてる!」
しばらく森の中を歩き回っていたクレスが、丈の長い草を指差して叫んだ。
「お、ホントだな。こりゃもう他は必要なさそうだな」
ザクザクと音を立てて落ち葉を踏み荒らし、
向こう側からチェスターがやって来るのを確認すると、
おもむろにクレスは草をむんずと掴み根元からそれを引きちぎる。
罠に使うためだ。
大人の腕程の長さのその草は、繊維質が強く裂くとちょっとした紐になる。

「金もかからないし、あっちこっちに生えてお手軽だし、枯れたらちゃんと土に還るし……
便利っちゃあ、便利なんだが……」清水から手を抜き、しげしげと爪を眺める。
「にしても爪の中まで真っ青なのはちょっとなぁ」
繊維こそ挟まってはいないものの、
汁が爪の中側まで入り込んで、爪と指の肉先にうっすらと緑色の線を作っていた。
「チェスター、手を洗うのも程々にしてそろそろお昼にしないか? もう流石に腹ペコだよ」
先に平たい石に腰を下したクレスが膝の上に昼ご飯を乗せ、急かす様に自分の腿を叩いた。
「言われなくとも俺だって腹ペコだぜ」
手に付いた水をピピッと払い落とし、チェスターはすぐ横の大きな岩にひょいと飛び乗り腰をおろす。
「おっ! ずいぶんと美味そうだなあ」クレスの弁当が覗き見える。
クレスの膝の中の、両手程の大きさの弁当箱の中は、
所狭しという言葉がピッタリな程ぎっちりとサンドイッチが詰まっていた。
中身はトマトやレタス、ハムといったごくありふれた内容だったが、
たっぷりとバターを使っているのかパンの両端から黄金色が垣間見えた。
マスタードも少し入っているようで、香りが良い。
「そういうチェスターこそ、今日は何だよ」
横から茶々を入れ、クレスの手がチェスターの弁当をさらい包みを解いた。
「うわぁ、こっちだって美味しそうじゃないか!」
クレスが生唾を飲み込むのがわかる。思わず自分も弁当箱を覗き込んだ。
弁当箱の中身はおにぎりが二つに添え物のおかずが数種。
おにぎりは鶏とごぼうの混ぜご飯になっており、
焚き立てに混ぜたのか米ひとつひとつに艶があった。
おかずはおにぎりの中身にも使った鶏肉を揚げた唐揚げと、ごぼうのきんぴら。
味に飽きがこないよう、違う味付けをしてあるようだ。
ごく、と自分の喉も鳴る。
「ねぇ、チェスター」
「なぁ、クレス」
同時に声を上げた。
見合わせる様に振り向き、確認するようにゆっくりと頷く。
「お弁当、半分こしないか?」
「弁当、半分こしようぜ?」
お互いの弁当箱が空になるのに、さほど時間はかからなかった。


「ふう〜、食った食った!」空になった弁当箱を横に、チェスターは自分の腹部を撫でさする。
「ほんとだね、もう入らないや」クレスも同じように腹をさする。
「丁度良かったねチェスター。林檎、アミィちゃんにあげといてさ」
「もうお腹には入りそうにないだろ?」と言うクレスに
思わずチェスターは苦虫を噛み潰したような顔になる。
もう一度腹をさすり、呻くようにまあなと短く返事をした。
(ちぇ……やっぱりバレてたか)
林檎は道具屋の前を横切った時にゴーリの親父から貰ったものだ。
「狩りに行くんだろ? ついでだ、持ってけ」と投げ寄越された。
甘い、密がたっぷり詰まってそうなあの香りは上物だろう。
「サンキュ」と礼を言ったがそれを狩りに持って行くつもりはなかった。
やればきっと、アミィが喜ぶ。
そう思って引き返し、アミィに渡した。
クレスには「忘れ物」と嘘を吐いて引き返し、林檎は家に忘れてきた事にした。
それを聞くとクレスはにやにやとした表情を浮かべ「ふうん、そう」と言うだけだった。
なんでだ。?

顔を見られない様に早足で歩いたのが悪かっただろうか?

「さってと!」
手早く弁当の包みをまとめ、石から腰を上げて屈伸する。
「さ、もうそろそろおっ始めるか! ぐずぐずしてると日が暮れちまう、……と?」
チェスターは目を細めそのまま息を詰める。
河原のすぐ側で茂みが揺れる、茶色にピンクの鼻先がそこからチラと覗き見えた。
ひとつやふたつではない鼻先に、口元が緩む。
だがキッとそれを結び直すと彼等に気づかれないよう囁く。
「おい、クレス」チェスターは弓にそっと手を伸ばす。
空になった弁当箱は後でゆっくり取りに来ればいい。
どうせ空の弁当箱なんて拾って喜ぶ奴もいないのだ。
おこぼれだって一粒、一切れ残っていない。
親指を立て、クイと茂みを指す。
「わかってる、チェスター」とクレスも同じように息を詰めながら、そっと腰を上げた。
クレスの口元も同じようににんまりとしていた。
今日は幸先が良い。
二人共、そう感じずにはおれなかった。









「っくしゅん!」
鼻の奥のさらに奥からのむずがゆさに思わず大きなくしゃみをしたアミィは
すん、と鼻を小さくすすり「いやだ、風邪?」と呟いた。
すぐさま気を取り直して流し台に立つと、包丁を片手に持ち、手を器用に回す。
スルスルという音と共に、赤色のリボンが手の中から次々と生まれてゆく。
窓から見える空は青色が澄み渡り、雲がゆったりと浮かんでいた。
家の中よりひときわ明るいその景色に目を細めながら、「どこかに出かけたい」という気持ちより先に
「洗濯物が良く乾くわ」とウキウキしてしまう。
そうして先程からなんだかんだと外へ出て窓を見てと何度も空を眺めるうちに、
辛抱たまらず自分のベッドと兄のベッドからシーツを引き剥がしてしまった。
洗剤で泡まみれになったシーツを丁寧に水ですすいで天日に干すと
洗濯洗剤の淡い香りと充足感がアミィの心を満たしていく。
シーツは幾分もしないうちに乾くだろう。
今夜その陽の香りのするベッドに包まれるかと思うと、今からどこか夜が楽しみで仕方ない。
午前中から狩りに出た兄も、疲れた体をベッドに喜んで沈めるに違いなかった。
アミィはふと首を持ちあげる。
向かいに見える屋根の上に、遠く突き出た針葉樹がサヤサヤと風に揺れている。
森を駆ける兄の横で、陽に透ける金髪が瞼に浮かんだ。
「お兄ちゃんたち、狩り上手くいってるかしら?」
どこか熱っぽさの混じった吐息だった。
それを全て吐ききると、手の中から生まれていたリボンがプツンと音を立て終わりを迎えた。
まな板の上で螺旋状にまとまったそれを邪魔にならない位置に除け、
今度は手の中に残った密色の実を中央に据えた。
真上から包丁を入れる。
するとどこか瑞々しい音を立てて甘い香りが弾け、アミィの周囲を幸福そうな甘い誘惑で覆った。
綺麗に半分に分かれた実の側面も、どこか薄黄金色に輝いている。
ごくり。
アミィはどんどんと湧き出る生唾を飲み込み、首を振るう。
香りだけでも十分に甘美な果実である事は明らかだった。
「だめだめ、摘み食いなんかしたらみんなの分が減っちゃう」
口に出して、もう一度溢れる生唾を飲み込んだ。
まな板周辺に漂う悪魔のような甘い香りがアミィを誘惑しているようだった。
引き寄せられる磁石のように、見るまいとする度に目が薄黄金色に吸い寄せられる。
たまらずに、アミィは一言呟いた。
どうしても、一口。いや、ほんの少量でも構わない。
食べたいのだ。
果実――
その横に並ぶ赤いリボン。
剥き終えた林檎の皮に視線が移る。
「皮は……使う予定、無いもんね?」
ごくり、もう一度生唾を飲み込んだ。









重たい足を引きずってようやく家にたどり着いたのは、
夕暮れで赤く染まるはずの日が、まだほんのり黄みがかり始めた頃だった。

「はぁ……、疲れた」
玄関に入るなりたまらず弓を下し、矢筒を肩から外し乱暴に玄関に転がした。
肩の荷が下りるという言葉通り、あれほど感じていた肩の重さがふぅっと一気に軽くなる。
そのまま玄関にドッカと腰を下し、そのままの勢いで泥にまみれたブーツを脱ぎにかかった。
ぬかるみや水たまりに足を踏み入れたせいで泥にまみれたブーツに手をかけると、
歩き通しで足の形に固まったのかしっかりと自分の足型に形成され、
足にピッタリとはまりこんで簡単には脱げそうにない。
「ん。くそ……」
ガクガクと前後に揺らしながら空気の通り道を作ってやる。
すると、ようやく片方が足から外れた。
ズポッと靴から足が抜ける音と同時に靴の中の温かなにおいが鼻を掠め、思わず顔をしかめる。
(この靴も後で洗わなきゃな)
そう思う心はなくはなかったが、それが今するとなるとかったるい。
(後でいいか。あれも、これも、みんなあとでいいや)
面倒臭いし動きたくない。
歩き通しだった足は乳酸がたっぷり詰まった証拠でもあるかのようにパンパンに張って、
手のひらでふくらはぎを押す真似をすると、それだけで手の平に熱を感じた。
疲れという名の接着剤がじわじわと腰から染み出して、自分と床とをくっつけてゆく。
座り込んでからそんなに時間が経ってもいないのに
すでにもう自分の尻から木の根でも生えたように、床から腰が動かない。
それでも玄関から外に向かって大きく足を投げ出すと、
足の裏に溜まった熱を風がさらって自然と先程の物とは違う吐息が漏れた。
「あっヤダ! そんな所で靴脱がないでったら」
かけられた声にチェスターは後ろ手に床に手をついて、そのままあんぐりと頭を逆さにする。
驚く事もない、どうせ家には自分とアミィしかいないのだ。
丁度アミィが自分の背に平行に立ってほんのりと眉間にしわを寄せていた。
「おう、ただいま」
「んもう……おかえりなさい、お兄ちゃん」
腰に手を当て仁王立ちに立っていた腕をアミィはしょうがないなぁと正し、
転がっている矢筒を丁寧に腕の中に納めてゆく。
「それで? 狩りは上手くいった?」よいしょっと腕の中の物を持ち抱える。
両肩からずっしりとのしかかる重さに溜め息をつきながら、
ゆっくりとチェスターは口を開いた。
「別に」
口の前に握りこぶしをひとつ作って、忌々しげに爪を噛んだ。




「クレス!」チェスターが叫ぶ。
叫びながらまたも背中の矢を弓につがえ、しっかりとボアの眉間を狙った。
呼び声に茂みが蠢きクレスが飛び出す。
「任せろ、チェスター!」
そこでクレスが止めの一撃を浴びせて一件落着、そのはずだった。
チェスターの口の端が「今日は猪鍋か」と緩みかけた、
そこで思わぬ事が起きた。
まず、つがえていた矢を放り出して耳を押さえたい衝動に駆られるほどの大音量で
地面に腹から横倒しになったボアが、地底の奥底から響く程の恐ろしい奇声を上げた。
ぎくっとほんの一瞬体の動きが止まる。クレスも、そしてチェスターも。
その一瞬で横倒しになったボアが走り出していた時よりも早く、必死に、必死に脚をかいた。
そう、その脚元に溜まった泥ごと、勢いよく。
それはボアの元に駆け寄っていたクレスの顔面に激しく音を立てながら襲いかかった。
「うわっ! コイツ、口に入っ……ぅべッ!」
クレスは顔に口に泥を浴び、
思いの外早くに体制を正したボアに矢を射ろうとチェスターは弦を引き。
「こいつ……逃がすかよ! っうあ!」
引き切らないところで膝から前へ突き出すように体制を崩した。
思えばあのひと鳴きが仲間を呼んだのかもしれない。
背後から勢いよく突き倒され、標的がズレた。
その一瞬で、追っていたボアは森の奥へと駆け出し、
後ろから割って入ったボアもそれだけを狙っていたのか、
振り返った時にはもう初めからいなかったかのように、煙のようにかき消えていた。
それでも居た証拠に、チェスターもそのボアに蹴りあげる様に砂をかけられて、
泥を真正面から受けたクレスは体中泥まみれになって
「うぇっ! ぺっぺっ」と唾と一緒に泥を吐き出していた。
その後水筒のお茶で口をゆすいだのは言うまでもない。
何が幸先が良いだ、チェスターも同じようにお茶を口に含み自分に悪態を吐くように吐き出した。





アミィは「別に」の一言で、それきり狩りについては何も聞き出そうとはしなかった。
チェスター自身、聞かれても言うつもりも無かった。
二人揃ってトチった話なんて、何が楽しくてきかせなくちゃならないと思っていた。
「そっか。……あ、もしかしてクレスさん……もう帰っちゃった?」
ああ、と頷く。
「俺もアイツも汗でドロドロだったからな、今頃家で風呂でも入ってんじゃないか?」
それだけ言って「よっと」と裸足で立ち上がる。
砂でさらさらの床の上を滑るのだ、
足の裏は真っ黒になるだろうけれど、どうせ風呂に入る事に変わりはない。
側ではアミィが『風呂』という単語に頬を染めていた。
脳裏に湯気で曇るクレスのイメージでも浮かんだのだろうか、チェスターはそれには気づかず、
ひたひたと音を鳴らしながら床を歩いた。
熱の篭った足に床が触れ、ひんやりとした冷たさが心地よかった。
数歩その感触を楽しんで、ダイニングテーブルの上でこんもりと形作っている布巾を目ざとく見つけると
それを三本の指で摘み上げた。
パイだ。
布巾の中からは、丸い皿にこれまた丸いパイが
今すぐにでも食べられるように数切れ切り分けられていた。
ごくりとチェスターの喉が鳴る。
小麦のパイ生地の焦げた部分が、焼く前に塗られた卵によって艶めいている。
まだ残っている温かみと共に立ち上る、甘酸っぱい香りに口の奥からさらに唾が湧いた。
「ずいぶんと美味そうじゃん。食っていいか?」
言い終わるが早いか、返事を待たずに一切れに手を伸ばし噛り付いた。
ザックリとしたパイの歯ごたえが顎に伝わり、
そのあいだからこぼれ落ちる様に現れる林檎の甘味が口に広がる。
自分が帰って来た頃合いを見計らったように、
丁度良い温度に冷めたアップルパイからは林檎の酸味と甘みの他に、
振り掛けられたシナモンのなんとも言えない香りが鼻孔をくすぐった。
大きく噛り付いた一口目をごくんと喉に落とし込む。
うまい。
二口目を齧り、三口目も齧り、空腹が段々と落ち着いてくるとともに
ゆっくりと思考するという事が戻って来る。
そういえば、家に林檎なんてあったっけ?
「アミィ、もしかしてあの林檎」と口にしようと振りかえると、
アミィは食べて良いも悪いも、言い終わる前に食べちゃ一緒でしょ! の返事も無く、
二つに結んだ青色の髪を、しおれた花のようにしょげさせて、
そのままの暗い顔で部屋の端に矢筒を置いた。
アップルパイをもう一口を口に含み、テーブルの皿に視線を戻す。
まあるく形作られたアップルパイは、大きな本体とすぐ食べれるように切り分けられたものが二切れ。
それと今自分が食べている一切れで全部。
すぐ食べれるように切り分けられた三切れは、自分とアミィと……もう一人。
(クレス……か)
ほわんとそれが頭に浮かぶ。
アップルパイの材料は、渡したあの林檎だろう。
一人で食べればいいのに、わざわざ我慢して作ったのか。
クレスが帰りに寄るかと思って……か。
ああもう、と後ろ頭を片方の手で乱暴に掻きむしりたい衝動に駆られた。
「いやー! うっまいなぁ、このアップルパイ!」
しょげていた頭がくりんとこちらを向く。
「こんな美味い物、うちだけで食べきるのも勿体ないなぁ!
そうだ、どうせこんなに食べきれないんだし、クレスのとこにでも分けてやるか!」
自分でやっておいてなんだが、これ以上無い位にわざとらしい。
自分自身嫌悪感すら抱く程の演技力だ、チェスターは実感し気持ち肩を落とした。
けれどそれが功を奏したのか、しんなりとしょげていたアミィの髪がクスクスと小刻みに揺れ始めた。
「ふ、ふふっ! やだ、おっかしいの、お兄ちゃん」
まあな、とチェスターは心底頷く。
「そういうわけで、クレスのとこにアップルパイ持ってくけど……いいよな?」
「ふふふ。うん、どうぞどうぞ。どうせクレスさんが来るかなと思って作ったようなものだし」
作った『ような』ものだしじゃないだろうとツッコミが入りそうになる。
ほとんどクレスの為に作ったものだろうに。
「おいおいアミィ、俺はおまけか? くそ。クレスなんか一切れで十分だな」
皿から一切れを端にズズッと寄せる。
「あら、駄目よ」
そう言って横からアミィは、どこから出したか包丁を取り出し、
慣れた手つきでパイをいくつかに切り分けていく。
「アルベインさんにはいつもお世話になってるんだから、ちゃんと人数分持って行かなきゃ」
ひとつ、ふたつ、大きかった塊が、サクサクと音を立てて分けられてゆく。
人数分とは言うけれど、一体何人分持って行くつもりだろう?
どんどん切り分けられてゆくパイを見ると、
大きくひとつになっていた所を見ていたものだからずいぶんと淋しさが増した。
後悔先に立たず、そんな言葉がふいに浮かぶ。
「ちぇ。こんなに無くなるんだったらクレスにやるなんて言わなきゃ良かった」
「あ、それからお兄ちゃん」
パイを切り分けていた包丁の背を人差指で押さえたままで、アミィはぴしりとこちらを指した。
包丁の先が鼻先で煌めく。
先程とは違う唾が口に溜まり、ごくりと喉を潤した。
「クレスさんの所に行く前に、お兄ちゃんもお風呂!
服も洗っちゃうから脱いで! 汗の臭い、すごいんだから」
包丁で鼻先を指したまま、アミィは空いた片方の手で鼻をつまんだ。
「そんなに臭うか、俺?」言われてチェスターはくかくかと左右の二の腕あたりを交互に嗅いでみた。
もう一度、嗅いでみると、ささやかながらすえた臭いが鼻をつくような気がする。
うん、確かに少し汗臭いかもしれない。
まあいい、どうせはじめからそのつもりだ。「はいはい、とっとと俺も風呂に入りますよっと」
そう言って手に持っていた残りのパイを、あぐっと口に咥え込む。
口のまわりについたパイのかけら指で拭っては舐め取りながら、
ひたひたとバスルームに足を向かわせる。
ドアノブに手が触れるか触れないかの所でピタと手を止めた。
「そうだ、アミィ」と呼びかける「ん? なあに、お兄ちゃん」
さっきまで気分が落ちてたってのにもう元通りだ。
まったく現金な奴、と少し誇らしげに鼻で笑った。
ったく、しょうがない。兄ちゃんひと肌脱いでやるか。
「明日の晩飯……なんだか無性にマーボカレーが食いたいなぁ。
多分すげぇ腹減らして帰ってくると思うからいつもよりかなり多めで頼むわ」
汚れた手がドアノブを掴む。
廊下の向こうでアミィが上機嫌で笑う。
「なにそれ? もう、しょうがないわね」
「あ、もちろん玉ねぎは無しな! 絶対!」
「う〜ん……、それは考えときます」
うん、どうやらばれてはいない。
チェスターはそれを確認すると安堵の息を吐き、バスタブへの扉をゆっくりと背で押し閉めた。
うん、うん、と二度、ゆっくりと噛みしめる様に頷いた。
上着を腹からまくり上げ、そのまま腕を天井に向けて伸びをすると
強張った筋肉に酸素が行き渡るような気持ち良さが駆け廻った。
どこか清々しい。
「ホント、いいアニキだわ。俺」
ぐいと脱いだ上着を洗濯かごに放る。
「アイツ、アミィの作るマーボカレー大好きだからな」
作りすぎたなんて言ったら喜んで来るだろう。
餌はカレー、獲物はクレス。
「連日狩りなんてご苦労なこって」
上手くいけばいいんだけどなと呟いてバスルームに足を踏み入れた。





















あとがき(以下反転)



思いっきり疲れていた時に「もう駄目だ……疲れた事しか書けない」と書き始めたらこんな感じになりました。
世間のカッコイイチェスターを汗臭かったり足臭かったり書くのは非常に楽しかったですw ←なんてことだw
前半の狩りのお話は罠とか茂みとかかなり創作が入っているので、気になった方はスミマセン。
二人っきりの狩りだったら多少罠とかを使う事もあるんじゃないかなぁと思ったりもして、その分の妄想が入っています。
あと全体的に食べ物ばっかりなのは多分お腹が空いていたから……?かと思います。
菓子パンのアップルパイでも満足できる人間ですが、美味しいアップルパイを妄想していたら
本物が食べたくなってしまって実は間食してしまいました;
あれだね、多分アミィちゃんはじんわりとクレスを餌付けしていく作戦なのかもなぁ。
料理の上手いお嫁さんって欲しいもん!


それでは長文お付き合い頂きありがとうございましたv
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです^^

(2009/05/29 up)