それはまるで誰も来ない道の影、行き場を無くし淀んだ空気の吹き溜まり。
舞い上げられ、降り積もった埃で曇る葉の表面を,闇が覆う死人の時を通り過ぎた夜の露が、撫でるように垂れ落ちる。
一滴ではその濁りもまだ薄い。
だがその一滴が乾くより早く,また次の夜はやってくる。
じとりと湿った空気の中、ぬかるみに埋められたガラスの器は跳ねられた泥で身を汚し、口は大きく欠けて鋭さを持ち、いつかは透き通っていたであろう内面は細かな砂で身を削られ、引っ掻かれ、自身に消える事のない傷を作り、もうすっかり輝きは鈍くなっていた。
そしてその内側、知らぬ間に溜められた、砂と濁った水の二つの層……今夜もぽたりという静かな衝撃に舞い上がる。
欠けた口の隙間からは、溢れ出しそうな水の端がちらちらと闇に身を躍らせていた……。
くだらない、なにが「もうちょっと素直になった方がいい」だ。
誰かに聞こえるほどにハッキリと舌打ちをし、夕闇の薄暗がりの中、少し濃い目の伸びた影は大きな砂利の音を立てて歩いている。
俺は誰も信じない、他人なんかには頼らない……実際、頼ったところで何をした?脅し、騙し、利用された。
俺は誰も信じない、そう、もう誰も。
砂利に埋もれた石を蹴り上げ、ポケットに突っ込んでいた手を開く。擦り傷だらけだ。
所々木の角や岩場で擦って薄皮が向け、爪の間は土が入り込んで真っ黒になっている。
無理も無い、あのゴーリとかいうじいさんの狩猟隊に入ることになって、もうずっと毎日が死に物狂いなんだ。
こんな汚れや傷なんか、いちいち構っていられない。
手当てをしている時間だって勿体無い、どうせこんなくらいほかっておいても死ぬ訳じゃない。
傷薬なんて自分の唾で十分だ。
なのに狩猟隊にいる奴らは時間さえあれば、どこの娘が気になるだ、自分の腕を見たかだの、たいして凄い訳でもないのに得意げになって話しまくる、どおってことねぇよ、お前らの腕なんて、そのくらいの奴なんてゴロゴロいるんだ。
そのくせ自分が怪我をするとピイピイうるさい位に騒ぎ立てる。
くだらねぇ。
そんな時間があったらウサギでも捕まえる為の罠がもう一つ仕掛ける事が出来るのに。
俺はまだ子供だからと武器を持つことがよしとされず、自慢の弓も役に立たない。
ただひたすら仕掛け、追い詰め、罠にはめる。それこそ手が真っ黒になるほどに。
だのに取り分は、いつも決まりで平等に分け与えられる。不公平だ。俺が仕掛けたのに、俺の作った罠なのに。
どうせ何も仕留める事が出来なくても、お前らは家に帰れば温かい飯が待ってるんだろうよ。
また少し血のにじんだ手の平で冷たいドアを押し開ける。
俺にはそんなの待っていない。
待っているのは腹を空かした妹の視線、それだけだ。
「ただいま」
返事が無い。
「おい、アミィ?」
返事が無い。
いつもはまだもう少し明るいはずの部屋の中が薄暮れがかった夕闇でぼんやりと輪郭をかたどっている。
足元には白い薄紙が何枚も何枚も舞い落ちて部屋に足跡のように広がっている……こんな光景はいつもの事だ。
明かりを灯してみなくとも何が描いてあるかはわかっている。天使だ、どれにも天使の姿が描いてある。
ひとり寂しくないようにと、もうずっと前に生活費を切り詰めて買ってやった色数の少ないクレヨンが紙の上を丁寧になぞっている。
そんなクレヨンは、今はもうどれもだいぶ小さくなって、親指の関節ほどになってしまった。
その中でも白色のクレヨンは何より先に無くなって、それでもアミィは天使だけを描きつづける。
だから、今の絵の中の天使の白い服は黄色に変わり、純白の羽根は水色になる……時々緑にもなったりする。
この間はリンゴに羽根が生えていた。
どうも空を飛ぶらしい。
赤、青、黄色、緑に茶色…どれも小さく汚れた中で一つだけまだ使われない新品のままの色がある。
隅に除けられたそれは多分これからもきっと使われないのだろう。
端ですら欠けていない。
一度も触れようとしなかったのだろうか?
こうやって俺が仕事に出ている間、アミィは一人で紙と向かい合っている。
それこそ二人で暮らし始めた当初なんかは、仕事に出る俺を一生懸命引きとめようと、泣き、叫び、喚き、俺はだいぶ手を焼いた。
想像などしなくても簡単にわかる、一人になる孤独に耐えられないのだろう。
俺だって、独りは嫌だ。もう誰もなくしたくない。
だけれども、泣いてばかりでは生きていけない。
昔、まだ元気だった母さんが、まだ目の開かないアミィを抱いてこう言った。
「チェスターはもうお兄ちゃんだからしっかりしなくちゃ……ちゃんと面倒見て仲良く出来るわよね?」
大きく頷いたのも覚えている。
だから……。
アミィはまだ小さい、畑仕事はもとより外に出す事だって危険だと思う、多分一度外に出してどこかにでも迷い込めば、きっと自力では帰って来れない。
だから、俺は留守を任せた。
俺に習って自分も狩りに行くと言い張るそれを、家事を任せたと言って閉じ込めた。
俺は外に、お前は内に。
ただ料理だけは、刃物を扱うからと取り上げた。
だからどれだけくたくたに疲れていても、それは俺の仕事だと受け入れる。
初めこそ危なっかしく、指先を包丁でかすりそうになるのを冷や冷やしながら何とかこなしていた頃は、もう一体どれほどまで遠ざかってしまった事だろうか。
皮ごと鍋に放り込んでしまった方が良いのではないのかと真顔で思えるくらい分厚く、身まで一緒に剥いてしまったジャガイモは、今では手の中で駒を回しているがごとく……とは言い過ぎなのだが、それなりに見るに耐えれるほどまでにはなっていた。
が、その引き換えに、指先には小さな傷の跡が増え、ほんのり薄ピンクに染まっていた柔らかい手の平は白く粉を吹いてガサガサに乾き、老婆のようなシワがあらわれ、節にはマメが見え、手の皮は剥け、水仕事で裂けた筋からは血がにじんだ。
でも……そんな事はどうでもいい。
時にみじめになろうが、時に運命を呪おうが。
どんなに不恰好な見た目の悪いものだって、どんなに味付けがまずいものだって、時に盛大に机を汚し、騒々しいほどに食器の音をさせて、それこそマナーにうるさい大人を連れてくれば、顔をしかめて叱り付けるのは当たり前なのだろう……だが味がわからなくなるほど規律に縛られ、まずそうに消費される食事に、一体誰への配慮がある?
そんな事を自然と考えるほどに、アミィは美味そうに夕飯を食べる。
実際がそうであってもなくてもだ。
きっと今ごろあかりを灯せば、アミィは部屋の端で毛布に包まり、すうすうと安らかに寝息を立てている事だろう。
それが、時にひどく憎らしく感じられる事がまったく無いとは言いはしない。
不公平だと思わないとは言いはしない。
それでも……それでもそれは俺にとって、紛れも無く『光』なのだから。

 

次の日、空はどんよりと重みを持って地表に近づき、白い粉のような霧雨が静かに降り続いていた。
あともう少しでもすれば、静寂は一変し激しい雨を地面に叩きつけることになるだろう。
その日はもともと予定では、狩猟隊を組み森へ狩りに行くはずだった。
とは言っても通常の狩りではなくむしろ討伐隊と銘打った方が正しいのだけれども。
今年はどうにも雨が降る事が多すぎて作物が上手く育たないと村の年寄り達が言っていた。
きっとそれは村の中も、森の中も平等で、木の実や草葉が思うように育たなかったのだろう。
「村のすぐ側まで、飢えた野犬が食料を求めて山を降りて来ている」らしい。
しかし今年は本当に雨が多く、今日ですら『あいにくの雨』
こんな日に狩りをしに出かけても、一体どんな成果が出るだろう?
相手は山の中で駆け回っているような奴だ、俺達が泥水で足を取られる隙に、どこまででも逃げていけれる事だろうよ。
そんな事で狩猟隊は今日は解散、俺の方は、なんだか知らないが道具屋を営むゴーリのじじいに首根っこをとっ捕まえられ『棚卸し』だとか何とか言う、在庫商品の点検の為に、それこそ名前通り棚の上に乗っている商品を上げたり下ろしたり。
おかげで腰がめっぽう痛い。
おまけに手もずっとズキズキするようで、いつもは粉を吹いて白いはずの手の平がなんだかぼんやりと赤みを差している。
いや……これはこのせいだけじゃないだろう。
自分が一番良く知っている。
そう。
パアン、と乾いた音が聞こえた。
目の前には頬を抑えたアミィがいた。
元々大きな瞳の端に水滴がだんだん盛り上がり、盛り上がり、ついには受け入れきれなくなって溢れた。
唇だけがワナワナと震えていて、でも目はギッとこちらを睨んで揺るがない。
痛いのはどこだろう?手の平がやけに熱い。
そして汚れた床の上、まるごとひっくり返って駄目になっている無残な姿のマーボカレーが飛び散っていた。
味は、アミィでも食べれるようにかなり甘め。
「にぃ……ちゃなんかっ、おにいちゃなんか大っ嫌い!!」
あぁ、痛いのはどこだろう。
手の平だけじゃぁないはずだ。
だってこんなにも痛いのだから。
痛むのは、どこなのだろう。
棚卸しには結構な時間が掛かったが、丸一日かかるほどじゃない。
しとしと降る雨のせいで、普段から到底大繁盛とは言えない店の中が、輪をかけて暇を持て余している。
こんな日は忙しい方が有り難い、忙しさに巻かれて、何も考えれないほうがいい。
雨の中でもなんでもいいから忙しすぎる狩りだとか、客の長蛇の列を相手にするのも苦にならない、なんだったら店の中、小太りのばあさん相手に苦情の対応を延々するのだって構わない。
退屈すぎる店番よりか。
こんな静かな雨の日は、どうしたって色々な事が頭に浮かぶ。
特に、昨日の事が、強烈に。
「あたしも何か手伝う!!」
起き上がり、目をコシコシこすりながら今日の晩御飯の予定をを聞いたアミィは、妙に張り切り、文字通り飛び上がった。
けれどいつも包丁から遠ざけるように、わざと料理に手伝わせようとしないのは、これからもこれまでも同じ事。
それが昨日は断られても断られても、なお執拗に自分も手伝うとはり合った。
何が、なぜにそうさせたのか?
ひっくり返された皿の中身が目に浮かぶ。
そんなにも、そんなにもだったのか?
ふぅ、と空気よりも重たい吐息を吐いて見つめた先、窓からは……赤い傘を差した母親がスカートの両端を二人の子供に引っ張られ、ずいぶんと困っている様が見えた。
雨はまだ、やみそうに無い。
お兄ちゃんなんか嫌い、お兄ちゃんなんか大嫌い。
まるで呪文のように呟いて、自分の小さなポシェットに溢れるほどムリヤりに次から次に荷物を詰める。
昨日からずっと泣いていたようで、起きた時、枕はほんのり湿っていた。
打たれた頬がまだなんとなく痛い。
昨日の事を思い出すと、心臓にも針が刺さったようで、きゅうっと身が縮まるような痛みがある。
床にひっくり返したマーボカレーは、今朝見てみたら綺麗に片付けてあり、食器は洗って伏せてあった。
まるで何も無かったかのように。
白く滑らかな皿の側面が冷たく光り、そこを伝う一筋の水滴が妙に胸に痛かった。
だが、荷を詰める手は休めない。
あちらこちらに書き散らした薄紙が落ちて床を白に染めている。
今日はまだ洗濯も何もしていない……どうせ降り始めた雨の中、干す場所の確保も出来ないだろう。
もともとする気も初めから無い。
ちらりと部屋を一瞥し、湿ったドアを小さな手で押し開ける。
あたりには雨の日特有の土の匂いが立ち込めて、大きく息を吸い込むと小さな体に染み渡り、満たされた。
外は、まだ、霧雨。
パシャンと一歩、踏み出した。
そうあまり忙しくなかった店番も、夕暮れと共に解放された。
家路につき、いつも扉を押し開けるとシンと静まり返った薄い闇が待っているはずだった、だが……なんとなく今日は勝手が違い薄いはずの闇は濃く、床にじっとりと溜まっている。
静か過ぎる。
「アミィ?」
返事が無い。
「おい、アミィ?」
足元には白い薄紙が鳥が飛び立った後の羽根のように散り、妹に呼びかけながら一枚一枚拾い集める。
明かりを灯してみなくとも何が描いてあるかはわかっている、はずだった。
そうだ。
それは天使のはずだ。
どれもこれも天使のはずだ……。
だが今日の天使にはどれにも羽根が無い。
描き忘れたわけじゃない。
羽根が折れたわけじゃない。
羽根をもがれたわけじゃない。
無くなった羽根のそのかわり……紙の端に小さく……薄い字で……。
『おかあさん』
「泣くな。いいか、母さんはいなくなってなんか無い。天国って所で生きてるから、だから……だから泣くな」
母さんが死んだ後、母さん母さんと泣きはらすアミィに俺は、言った。
「……天国って、どこぉ?」
「空の、う〜んとうんと高いとこ、多分、空よりもっと上」
そう、答えた、その事をすっかり忘れていた。
だからリンゴにも羽根が生えた。
母さんの住む『テンゴク』に届けるために。
だから!!
アミィがいつも描いていたのは天使なんかじゃない。
母さん、だったんだ。
そして……昨日の献立は、『マーボカレー』
もういない大好きだった母さんの味だ。
アミィはその作り方を知らない、作り方を母さんから教えてもらってなどはいない。
幼すぎたから。
だから知らない。
知っているのは俺だけだ。
そして母さんの味を教えて欲しかったのだろう、いつに無くかたくなに食い下がったアミィを……俺は、払いのけた。
怒り、何度も、何度も払いのけた。
思い出して、自分自身を苦々しく、チッと苛立ち紛れに舌を打つ。
なんて最悪な兄なのだろう。
片手にまとめた薄紙の、その最後の一枚をめくり上げる。
とたん彼はギクリとし、そして思わず身を硬くした。
そんな彼の足元に一本、他のものと比べるとやたら長さの残ったクレヨンがあちらこちらに跡をつけ、死人のように冷たい板の上に同じく冷たくただただ静かに横たわっていた。
それは彼女がいつも意図して使わないクレヨン。
初めからその存在が無かったかのように扱われて、手にとる事も無かった色。
それは、彼女が今までで一番悲しかったであろう時に身を包まれ、そして囲まれた色。
……父さんの、そして母さんの棺の色……。
それが今一枚の薄紙の上を一面隙間の無いほどに、埋め尽くしていた。
指先がヒヤリと冷たい、さっき少しばかり雨に降られたせいか?
胸騒ぎがする、まるで胸の上を虫が這っているように、ざわつく。
静か過ぎると思ったのは、この霧のようにかかる雨のせいか?
家のきしむ音一つ無い。
そして、妹の声一つさえ。
そう、唯一血の繋がった妹の返事一つさえ
「アミィ!!」
片手に持った妹の描いた落書きを取り落とし、階段の手すりを乱暴に掴み駆け上がった。
だが時はもう、既に遅い。
誰も居なくなったダイニングには、さっき一枚一枚まとめた薄紙が思い思いの場所に舞い降りて……。
そう、まるで飛び立った後の鳥の羽根のようにただ静かに散っていた。
幼い鳥はただ一羽、行き場を知らずに飛び立った後。
もう いない
樹のうろの中は暖かい。
うつらうつらと時折頭を揺らしながら、ぼんやりとした瞳は地面に勢いよく打ち付ける雨音を聞いていた。
気持ちばかりが急かされるままに何も考えず家を飛び出してきてしまった。
思えば昨日の夕飯を拒んでから何も口にはしていない。
あえて口にしたというならば、思ったよりも勢いよく降った雨水のその端くらい。
「おなか空いたな……」
むくりともたれかかった背中を起こし、ただ一つだけの荷物を探る。
確か入れたはずなのだけどという、おぼろな記憶しか残っていない。
一体何を詰め込んだだろう?
ハンカチ、ティッシュ、裁縫道具、昔からの宝物を詰め込んだ小さな小箱が場所を取る。
おおよそ家出道具とはいえない選択だ。
傷薬くらいは入れてもよかっただろうに。
ただ、家を出る当初から雨は降っていたので雨具に関しては上出来だった。
そのまま霧雨であるならなお更良かったのだけど。
ようやく出てきたビスケットを口に含む。
いやに甘い。
袋に入れていてもなおも甘い匂いが漏れるほどで、鞄の中はバニラの香りで満たされていた。
少しだけ入った袋の中身は無くなるのもまた早い。
袋の中を全て片付けてしまってもまだ満たされるのには程遠かった。
もう少し沢山入れてこればよかったと、今更思っても遅かった。
耳の横で風が泣いている、少し風が強くなってきた、雨足もどんどん強くなり、打ち付ける雨を塞ぐよう盾のように構えた赤の傘が飛びそうだ。
今ごろ一体どうしているか、かげりはじめた夕陽を眺め、兄を思う。
空になっている家を見て一体何を思うだろう。
そのままにしたあの紙達をもうすべて見てしまったろうか。
だとしたら……帰れない。
いや、違う、何を一体考えているのだろう、元から出てきた身のはずなのに。
人の目に付かぬ場所へと、手繰られるように森へと逃げたはずなのに。
「さむい……な」
指先を暖めようと何度もさっきから握ったり解いたりを繰り返したが芯の芯まで冷え切ったようでもはや感覚すら鈍くなっている……ギュッと身を縮めると一層寒さが増した気がした。
ちょっとひどい事言っちゃったかな…まぶたの裏にはぼんやりと昨日の自分が映り、消える。
不器用だけれども、いつも自分を支えてくれるお兄ちゃん……
ちょっと頑固な所があるけど、いつも一生懸命なお兄ちゃん……
かさかさの手はいつも硬くてごわごわだ、だけどいつもとても温かい……
でも……でも……。
一つの大きな溜息と、少しの震える声が漏れた。
「おなか……すいたよぉ……」
帰りたい、帰らない、帰れない、帰りたい。
今ごろ自分を探しているだろうか?
それとも気にも留めていないだろうか?
少し濡れて湿った裾が重くて冷たい。
宝石のように光る大きな瞳が曇って潤む。
幼い体の小さな心が冷えて寄り添う場所も知らず、ひとり凍える。
ぎゅっと硬くした体の耳元で闇をまとう風が笑って通り過ぎる、彼女の元に誰かを連れて。
茂みの向こうに影が揺れる。
お兄……ちゃん?と、口にしかけて息ごと口を紡いだ、影はそれではなかったから。
それどころか彼女はその訪問を望んでなどはいなかった。
誰もその訪問は望んではいなかった。
体が震える……!
つめたく冷え切った体が震えるという事を急に思い出したように、小刻みにしかし大きく音が出るほどに震えた。
茂みを割って出て来た影は、雲で遮られながらも朧に光る二つの月に照らされる。
その体は黒狼のようにはっきりとした色の毛並みを持ち、闇の中で金色に光る瞳だけがぎらりと不気味に狂気をはらむ。
濡れた毛並みは泥にまみれて汚れ、しなやかな体にやたらへこんだアバラの浮かぶ腹が、だらりと垂れた赤い舌の意味を語る。
そして狂気をはらんだ金の瞳と、口元から垂れるよだれの意味を。
知りたくなくても十分に。
「数日後にまた狩猟隊を組むんだとさ」
さも面倒そうにこの頃手入ればかりで活躍の場を持たない弓をいじりながら彼は言う。
「おにく?」
「違うって。狩りは狩りだけど猟じゃなくて野犬狩りなんだとさ。お前もあんまり外を出歩くなよ……」
「野犬は人を襲うかもしれないって話だからな」 「ひぁっ!」
にじりにじりと、しかし迷いもせずにゆっくりといたぶるように確実に影は近づいてくる。
こちらの足がすくんでしまっている事などお見通しな余裕すら持って。
小さな少女の恐怖をも前菜であるかのように味わいながら。
一歩一歩確実に弧を描きながらにじり寄る。
ビスケットの欠片が地面に落ちてなお甘い芳香を漂わせていた。
それを入れていた鞄ですらも。
「やぁっ!来ないで…、来ないでっ!」
雨よけの傘を今度は盾でなく武器にするように掴んで振り回す。
だが、たじろがない。
あとひと飛びで獲物の首を噛み切れる場所で闇とほぼ同化したと言っていい影は止まり、足を揃え直し、ひとつ大きく舌なめずりをする。
それでもすすりきれなかったよだれが口からあふれ出た。
間隔はもうほとんど無く、あと一歩で肉が噛み千切られる距離。
足が次のひと飛びの為に揃えられ土を蹴る。
来る!!
「や……ッ!いやあっ!来ないで!」
執拗にいやらしくまとわりついていた風の薄ら笑いを切り裂いて、耳に届いたものは雨音じゃない。
「てめえ!俺の妹に何しやがる!」
声が突き刺さったように、黒狼の影に深く矢が突き刺さり、腿を引きずり転げた。
声の向こう側で、矢を構える姿が照らされていた。
銀糸のような髪が煌いていた。
穏やかに光る月が、ようやくあたりを囲う黒い雲から解放されて雨は止み、ひやりと雨の臭いのする空気が胸に気持ちが良かった。
おぶるアミィの体重はもうこんなにも重く、あの頃からの時間を思わせた。
いつまでも、何もわからない子供じゃない。
背中に顔を埋めるように、涙をすする感覚が嫌な気はしないがむずがゆい。
歩くたびに零れる小さい小さい言の葉が、胸で流れて銀色の音を立てる。
小さく震え泣くアミィ、しゃくりあげながら言葉がうまくつむがれずに零れて闇夜に波紋を落とす。
「おにちゃ……ごめ……さい。ごめんなさ……」
「……いいって、そんな、だから泣くな。それに……俺の方だって、ごめんな。お前の事全然わかってなかった」
違うと首を振ってるんだろう、背中の感覚が左右に揺れる、違わねぇよ、俺は何にもわかってなかった。
「腹、減ったな。昨日のさ、残りしかねぇけど……食うのイヤか?」
お袋の味じゃない、偽者の甘口マーボカレーだけれどもそんなものでもいいだろうか?
「ううん、嫌じゃないよ……お兄ちゃんの作ってくれたカレー、好きだよ、甘くて食べやすいもん」
「そっか」
「うん……。でもいつもたまねぎ入ってないけどね」
「うるせ、なんだばれてたのか。なぁ……アミィ、マーボカレーの作り方はさ、お前がもうちょっとでかくなったら教えてやるから」
「ううん、いい。教えてくれなくていい。そのかわりお兄ちゃんの料理のお手伝いをさせて!包丁使わせてとか言わないから。それであっという間にお料理が上手になって、お兄ちゃんなんかすぐに追い抜いちゃうんだから!で、そのうちすっごい美味しいアミィ流マーボカレーを開発して、どうしても教えて欲しいってお兄ちゃんに言わせてやるんだから!だからその時までおあずけ」
きゅっと首に手を回して、とても楽しそうにアミィは笑った。
そして俺はそれを鼻で笑った。
「はぁまあせいぜい頑張ってくださいなっと」
首に手を回したのは初めからそのつもりだったのか、言い終わったとたんキュと首を締められた。
全然苦しくは無かったけれど。
家までは、あと少し。
帰ろう。
灯りもまだつかず真っ暗で、時折冷たい風が入り込む寒いけどでも暖かいあの家へ。

 

 

 

 


あとがき
霧夕です。今回は小さかった頃のバークライト兄妹のお話でしたがいかがでしたでしょうか?
こちらの設定は、文庫とファンダムではがらりと違う設定があり、どうしようかと思ったのですが、文庫のいいとこどりをさせていただきました。
他ファンダムからはアミィちゃんのマーボカレーのお話で「俺の方が本家なんだぜ?」というセリフからこのお話を作っていきました。
彼らもまた語られない所が多いのでこんなのバークライト兄妹じゃない!と思われる方もいるかと思いますが、どうか気にしないでいただければと思います。

ちなみにネタとして一番に思いついた事は白ばかり無くなったクレヨンなのですが、やはりここは自然とアミィちゃんに使っていただく事になりました。
一番イメージとしっくりきたので…いい味が出ていれば良いのですが…。
ほんわかといいなぁ!兄妹モノ!と思っていただければ多分一番の喜びです。

では、ここまでお付き合いいただきありがとうございましたv
のんびりですがこれからも頑張りますのでよろしくお願い致しますv
(2004・11・11UP)