私はこの場所が好きだ。
確かに初めてここに連れてこられた時は、こんな埃の舞うような所に来るなんて、と絶句した。
だが空気ですらカビてしまうのではないかというほど同じ場所に居もすれば段々とそんな気持ちも薄くなり、この場所に愛着すら湧いてくる。
もちろん、そんな風になるまでには相当な時間がかかったのだが。
自分で言うのもなんだが私の適応能力は高い方ではない。
むしろ後ろから数えた方が早いのではないだろうか。
当然の話、あの頃の私はここで明らかに他から浮いていた。それだけは間違いなく言える。
多分違う奴にでも聞けば、自分も昔そうだったと皆口をそろえて言うだろう、皆が通る道だとも言うだろう。
そして私達は夢見ている、この埃まみれの世界から出る事を。
窓枠から見える美しい世界に出る事を。
待っているのだ。
この場所から連れ出してくれる存在を。
だが。
それは叶わぬ夢。
あともう少しという所で、皆この手を離してしまう。
ある老人は私の事など見向きもせず。
ある中年は私にいぶかしんだ眼差しをし。
やっと機会が巡ってきたと希望を持ったある青年は、軽々と私を持ち上げて、お互いにしばらく見詰め合い、次に物思いにふけり、天井の一点を凝視していたかと思うと、ゆっくりとまぶたを閉じて、少しの間動きを止めた。
私達に会話は無かった。
向こうはどうだかわからないが、私は話しかける事が出来なかった。
本当ならば自分をアピールすべきなのに、流れるような仕草があまりにも美しく、見惚れ、そうする事などどうでも良くなってしまったからだ。
だが青年は私を外の世界に連れ出してはくれなかった。
一時の気の迷いか、ただの興味だったのか、手は簡単に離れてしまった。
悲しかった。
彼がその時見せた表情を私はこの長い時の中、きっと忘れはしないだろう。
自分を皮肉んだような微笑みは、なぜか彼に良く似合って、ひどく魅力的だったのだから。
 しかしそんな一生に一度のチャンスを逃したと確信を持ったその二日後、私はあっけなく長年居続けたこの場所を去る事になった。
長年待ち望んだ買い手が現れたのだ。
もちろん私は喜んだ。
これでこの埃まみれの場所から出て行くことが出来ると。
だが反面少し悲しくもあった。
この埃がたまって四角く跡がついた私の定位置も、明日にでもなればまた新しい商品がこの棚に加わるのだろう。
埃の溜まった薄暗い棚の影、その一角が私の場所、これがもう私の場所でなくなるのだから。
しかし新しい場所が待っている。
それも驚いた事に私など必要としなくてもいいような、クリッとした紅い瞳の印象的なとても可愛らしいお嬢さんだ。
私は簡単な袋に包まれて、あれほど押し開け出る事を願ったドアが開く。
焦がれに焦がれた外の世界は薄すぎる袋の中からでさえ、眩むほどに眩しかった。
光のある世界は、とても懐かしく、美しかった。
私が生まれて間もない頃と何も変わってはいなかった。

 旅をしている者にとって『今度』や『また』という言葉は無いものだという。
命にしても機会にしても全てが此処では一期一会。
人にしても、物にしても。
一見深刻な内容とは正反対に少女はにまにまとした表情を浮かべ、机の上に転がした硝子の瓶をそのしなやかな指で弄ぶ。
確かに、旅で必要なものを買出しはする。
だが買ってくる対象は『必要なもの』、無用なものはお払い箱だ。
各地を旅し、美しい景色を眺めても、変わった乗り物に乗ったとしても、同じ旅という名前だが生易しい観光などではない。
しかし面白そうなものがあれば是非とも首を突っ込んでみたい。
長時間に渡る我慢のできるタチではない。
たとえばそれが面白そうな話なら今で無ければ聞き逃し、たとえばそれがとても可愛らしいアクセサリーならば今を逃せば売切れる。
人も物も命も機会もすべて此処では一期一会。
ならば一つしかない商品は?
ゴロゴロと転がしていた指を止め、指先で瓶を持ち上げる。
透明な身に水晶のようなのようなカットを施してあるその容器には、うっすら色づく桃色と、透かして見える向こうの景色、そしてやはりニヤニヤと笑う自分の姿が映っていた。
「さてと……。どうしますかね?」
机の上には埃をかぶった小さな箱が自身の口を開けはなれたままでポイと乱雑に転がされ、そして勢い余って飛び出てしまった薄茶の今にも破けそうな紙が一枚側に転がっている。
そしてこの小瓶に至っては取り出す際に箱から真っ逆さまに投げ出され、机に勢い良くぶつけられ、瓶も机も両者互いにへこみ傷を負う結末となった。
しかし当事者は知らぬ顔、今度は小さな紙切れを手に目を細くして読みふける。
箱の中にありこそすれかなり長い年月を過ごしたその紙は、薄茶に焼け、インクもかなり色褪せて、元々小さな字でビッシリと埋められるように書かれた事も手伝って、必要以上に読みにくい、目を酷使するものとなっていた。
更に言えば所々文字も消え始めてしまっていたので、目の悪い老人や面倒な事を嫌う人は読む事を途中で放棄してしまうのが普通だと思える位であった。
少女は……。
「ま、いっか。こんなのどうせ何かに混ぜて食べさせちゃえばいいんだもんね!」
いとも簡単に投げ捨てた。
小瓶に付属した説明書はあっという間にただの紙くずになり、続いて小箱が後を追う。
中身以外は不要なもの、本物は中身だけあればいい、つまりそういうことらしかった。
透明ガラスの小瓶の中身、薄桃色の液体の名は……。
「……ためしにちょっとなめちゃおっかな?」
小気味のいいキュポンという音を立てて栓を抜き、徐々に徐々に瓶を傾ける。
水分がだいぶ飛んでしまったのか、それとももとから粘度が高い液体だったのか、まるで焦らすかのようにゆっくりと、とろみを帯びた液体は瓶の口へとつたってゆく。
(甘い香りがする……)
握っていた手の平から体温が伝わり、液体の香りが飛んでいるのだろう、埃まみれだった古びた外見に似合わない……甘い鼻腔をくすぐる香りがし、頬がほんのりと上気する。
少し熟れ過ぎた無花果のような、少し傷んだブラックチェリーのような、甘酸っぱくどこか妖艶な香り……。
苺やオレンジなどでは持ち得ない……優美な、闇に手をこまねく香り……。
色づいた液体は、つぅ……と糸をひくようにゆっくりと彼女の指先に落ち、溜まる。
そんなただの動作だというのに、いつしか彼女はまるでそれが甘美なものであると言いたげな視線でうっとりと目を細め、ゆっくりと指を唇に近づける……その時。
「アーチェさん?」
ふいに呼ばれた声にはじかれたようにハッと我に返り、反射的に薬がついた方の片手を素早く握りこみ、小瓶を素早く背中へ隠す。
ノックに次いで現れたのは、法術師ミント・アドネード。
「どうかなさったんですか?皆さんお食事ですので待っておられますよ?」
「あ、あぁ、うん。わかった、すぐに行く!だから先行ってて?」
「そう、ですか?」
小首を傾げパタンと軽い音を立てて閉められたドアを確認し、握った手の平をゆっくり解く……。
さっきまで妖艶な香りをたてていた液体は、それこそベットリと手の平に付き、さっきのものとはまるで別物に成り下がっていた。
「うわ、勿体無……」
使えばたちまち心は囚われ、他の何者にももはや心は動かない。
ただ1人、その命尽きるまでひたすらにひたむきにその心求め続ける。
透明ガラスの小瓶の中身、薄桃色のとろりと光る液体の名。
それは……。

 何でこんな事になっている?
これは何かの罰ゲームか?
もしくは心理テストのつもりなのか?
思わず誰かに聞きたくなる。
ごくりと固い唾を飲み下しつつ、じっと視線は目の前にさあ!といわんばかりに突き出されたモノに貼り付けになる。
目の前にはカップケーキが盆にのせられて三つ、形も大きさも意図的かそうでないのか良くも悪くも色とりどり多種多様に並んでいる。
左から順に……異常なまでに大きく盛り上がっているやたら白いしっかりと焼けていなさそうな奴、ついでにカップの底からからは、シロップか生地なのか何なのか、何かが漏れ出してしまっている。
真ん中の奴は大きさはまあまあ普通。
おかしい所といえば全てと答えたくなってしまうがあえてそのセリフを息といっしょに無理やり飲む。
どうにも表面は中央が深く陥没して、なぜか所々に黒い染みのような点が浮き上がる。
「なぁ?これチョコチップとか入れてあるってわけじゃないよな?」
「何言ってんの?見りゃわかるじゃん皆同じプレーンだってば」
皆、同じ……。
何度目の唾を飲み込んだろう?
だけれども一回として食指が刺激されてのものでは無いのは確かなはずだ。
暑くも無いのに汗がこめかみを静かに伝う。
「んじゃまさかコレも同じ奴とか言うってのか?!」
指を指したのは最後の三つ目、小さくこじんまりと収縮した真っ黒な消し炭といってもいいほどの塊。
焚き火の中に放り込めばきっとよく燃える事だろう。
「だからさっきから同じので作ったって言ったじゃん?ちゃんと聞いてなかったの?とにかく何だっていいからどれにすんのよ?ほら、早く選ぶ!!」
ずい、と突きつけられた盆からは、見た目とは正反対に果実が熟れ過ぎたような甘い香りが漂って風にさらわれていく。
辺りをキョロキョロ見回しても助けの船は見つからず、強行突破をしようものなら間違いなく魔法をぶっ放されて、倒れた所を詰め寄られ、無理やり押し込まれてしまうだろう。
そうなれば被害は甚大だ。
災悪にして最悪な結末だけは避けたい所。
出来る事なら逃げたいが、出来ないのならばしょうがない……腹をくくるより仕方無い。
「……絶対、一口だけだかんな」
何度もどれにするか迷った挙句、一つをその手にすっぽり収め、気持ち震える手でゆっくりと恐る恐る一口かじる……。
まずはじめに目頭を抑え、ゆっくりと屈み込み、片手で顔を覆って完全に地面にしゃがみ込む。
そして……沈黙。
「え、え?ちょっとチェスター?」
「おっ前なぁ、なんだコレ……すげぇ不味い。砂糖かなんかが溶けてなくて思いっきりジャリジャリするわ、混ぜきってない小麦粉はあちこちでダマになってるわ、第一プレーンってのは味が無いってわけじゃねぇってのわかって作ってんのか?マズイ、マズ過ぎる!どうしたらこんなに不味いのが出来るのかさっぱりわかんねぇ。お前ひょっとして毒物でも作ってんじゃねぇのかってくらいだぜ?!」
「なっ!ちょっとした失敗じゃん!そんなに言わなくてもいいじゃない!それよかさ、なんか他には無いわけ?気持ちがホワ〜ンとしてきたとか急にドキドキしちゃうとか」
あぁ?!と怪訝な表情で顔を上げると、なぜか両手を組み合わたアーチェがグッとこちらに顔を寄せる。
いささか距離が近すぎる。
「んなっ?!ね、ねぇよそんなの」
そう答えたとたん、近かった顔はパッと遠ざかり明らかに残念そうな表情になる。
「なんだぁ〜ニセモノだったのかぁ。つまんないの〜」
おい。
おいおい。
待て、なんだ今の発言は?
「おい!アーチェ、お前コレに一体何入れた!ニセモノって一体どういう事だ?!」
つまりが俺は実験台か?!いやな予感が脳裏をよぎる。
「あ……、えっとぉ〜、えへへ。いやちょっと前古道具屋っぽいところで面白そ〜なのを見つけちゃってさぁ……、でもほら!いいじゃん別に特に何にも無かったわけだしさ!ね?」
「な・に・を・い・れ・た?」
「うぅぅ〜、いいじゃん別にそんな恐い顔しなくってもさぁ……、薬……ちょびっと入れただけじゃん」
「聞こえねぇ。何だって?ハッキリ言えよ」
「〜ッ……だ〜か〜らぁッ!!この間この街で買った惚れ薬をちょっと入れただけだって言ってるじゃん!!いいじゃない別に何の効果もないニセモノだったんだからそんな風に怒んなくったってさ!!そんなに食べたくないんだったら他のはクレスやクラース達にでもあげちゃえばいいんでしょ!!薬はどうせみんな入ってるけど効果とか無いんだったら別に何の害も無いんだしさっ」
一気にまくし上げたせいで息を切らし、なぜか謝る側がこちらを睨む。
なんと言ったか今の発言、入れたのは……惚れ薬?
しかもこの街の、古道具屋で?
「それってもしかしてあの角の古道具屋って言うんじゃ……」
ふんっ、と鼻息を荒くしてまだアーチェはこちらを睨む。
怒る筋合いはあれど怒られる筋合いは見当たらない。
「そうよ!あそこの古っぽ〜い道具屋で暇つぶししてて見つけたけど何か文句あるっていうの?!いいわよ、これから二人に残りの二個をあげてくるんだから!」
「あ、オイちょっと待てよ!」
反射的にその腕を掴む、効かないにしろ何にしろ二人に惚れ薬入りのカップケーキは渡せない。
余計な勢力は増やせない。
例え話こそ違えども、勝負で勝つコツは、力があることより技量があることより、なにより余計な敵を作らぬ事。
グイと勢いよく引いたせいでよろめくアーチェを支えつつ、不安定になった盆の上からかっさらうと言う言葉が適切なほど素早くケーキを奪い取る。
あっ、と言う短い叫び声などお構い無しに残りを自分の口に押し込んだ。
「こんなもん……旦那はともかく、クレスになんかに、食わせれるかっつの。うぇ……マジぃ、ミントとか色々なぁ?」
大きな奴と小さな奴を飲み込んで、残りは自分のまだら模様。
匂いだけはやたらに甘く、そのギャップにいささか苦しんだ。
「あ、そっか。でもそれだったらそんなにマズイマズイ言って食べなくてもゴミ箱に捨てちゃえばイイ事じゃん!」
確かに。
げほんと一つ咳き込んで、思い直して言葉を紡ぐ。
「いや一応念のためな?」
ゴミ箱に捨てられたカップケーキ、どこでどうなるかは予想の範囲を越えていて、だからこその万が一を予想する。
余計な勢力は、例え些細なものでも削るべき。
こっち方面のライバルは、無いに越した事は無い。
「ま、もし薬が本物だったとしても、俺にはそんなの意味無ぇな」
最後の一欠けらが宙を待った。

 さてさて。
彼女が「ちょっとだけ入れた」例の薬、本物だったか偽者だったか本当の事を話しましょう。
答えは宿屋のごみの中。
紙くずになった小さな紙切れ。
薬を買うとどこかしらについてくる『使用上の注意』
そこには薄茶に焼け、インクの薄れた薄い文字でこう書いてありました。
『揮発性の非常に高い薬ですので、日光を避け涼しい場所に保管し、正しくお使いください』と。
黒焦げになるほど焼かれたカップケーキ、素敵に火が通っていたのは言うまでもありません。

お薬は 用法用量を守って 正しくお使いくださいね

 

 

 


あとがき
霧夕です!
相互記念として書かせていただいた『桃色ピンクの××薬』いかがでしたでしょう?
リクエスト内容としては『相手に隠れて何かをたくらむ』と言う事だったのですが…書きあがってみてハッとあんまりリクエストに添えていない事に今更ながら気がつき滝汗モノです;
うひゃ〜!!朔夜様、こんなものでも嫁がせて頂いても良いでしょうか?ダメでしょうか;;
や、あまり添えていないのはともかくとして、とても楽しく書かせていただきました。
個人的にはトロリと薬の垂れる所に力が…(笑)
遅くなりましたが、こんなでよろしければお納めくださいませvV
 →追記vv 嬉しき事に朔夜様から
挿絵風イラストをいただきました!同ギフトページに展示中です!朔夜様ありがとうございましたvv

ちなみにこちらは朔夜迦陵様へ相互記念と言う事で書かせていただいたものです!
なので
ご本人様以外の方の持ち出しは禁止とさせていただきます。
本当は元ネタとか話したいのだけど昨年からちまちまと書いていたものなのでもうだいぶ忘れてしまったという事実!!
実は当初惚れ薬は目薬だったとか。
いったいそれでどんな話が出来上がるのだ……?!

それでは、最後まで読んでくださった方々へ
いつも月並みな言葉ですが長々とここまで読んでいただきどうも有難うございましたv
叱咤激励などありましたらとても嬉しく思います。
ではではvV
(2005・1・18UP)