「よっと」
滑りが悪いのか、ガタガタと異様に大きな音を立てて窓が揺れる。
手はだいぶ汗ばんで、心なしか身体もうっすらとゆげが立ち上りそうなくらいにあたたかい。
半ば意固地になって、ようやくできた窓の隙間に手をかけて体重を思いきり片側に乗せると、
バシャンという、耳がキンとするほど大きな音を立てて窓が開いた。



   【 彼らの 2月14日 】



「これで全部だな」
そう呟いて、クラースはようやく人心地ついたように窓にもたれ掛かった。
昼下がりの穏やかな空気が部屋に流れ込み、体にまとわりつく熱をさらってゆく。
なんとも実に気持ちがいい。
机には作りかけのテストの問題用紙やら、参考文献やら、とにかく色々なものが
何もかも途中で山を作っていたのだけれど、
今はそんなものよりも何よりも、しばらくここでこうしていたいと背中を反らせた。
水色のグラデーションが目に飛び込んだ。冬の空は高く、今日は雲がとても少ない。
窓際に本でも持ちこんで、椅子に揺られながら読書するのも悪くないなと思う。
むしろそのまま昼寝に洒落込んでも良かったのだけれども、生憎と今日はそうもいかなかった。
もう2時間もすれば小生意気な子供達が、ここ『クラース魔法修練場』に集まり始める。
もっとも彼等は魔法を習得するためにやってくるわけではなく、
もっと基本的な『語学』や『計算』を学びに来るわけで、
しかも自分自身から学ぶ意思を持っているというわけでもないので、
毎時間授業の始めに出す書き取り用紙に、色々なものが書いてあったりする。
時に何かの絵だったり、時に何かの走り書きだったり。
そんな生徒の為にミラルドはさっきから台所で粉まみれになっていた。
粉まみれになって、砂糖まみれになって、卵まみれになって。
そのせいで、さっきから部屋の空気が悪く、どことなく息が詰まってしまう。
そう思うとなんだか部屋の中の臭いが気になって、
クラースはふんふんと鼻を鳴らせて空気を嗅いだ。
部屋中の窓を汗を掻きかき開け放って、空気も大分抜けたかと思ったけれど
それでもやはり、まだなにか臭かった。
腕を鼻に近づけると、どことなく、バニラエッセンスの臭いがするような気もするし、
こんがりとした煙に少し燻されているような気がしなくも無い。
ミラルドに「人数分作るつもりだけど、クラースもどう?」と誘われたが、
あまり甘いものを一緒になって作る気もなかったので
角が立たないようにやんわりと断って部屋に逃げ込んだ。
どうやらミラルドは、今年はクッキーを作るやらなんやらで、
テーブルの上には小麦粉や、ココアなんかも並んで、かなりにぎやかになっていた。
ラッピングする袋なんかもちゃんと用意してある。
男はブルーの、女はピンクのリボンが、クッキーを待って待機して、
そろそろ完成品が出来あがり始めるくらいなんだろう、
こんがりよりも、もっとくどいくらいに、香ばしい臭いが部屋を満たしてゆく。
「まぁ出来あがりはまた後でゆっくり見れるさ」
つぶやいて、余裕綽々で伸びをした。
そう思うと甘くさいのも悪くは無い。

 

冬の空気は寒い。
当たり前の事だけれど、寒い。
甘い匂いがようやく抜けたと思って、それじゃあと寒さに耐えかねて窓を閉める、
すると閉められて篭った空気の中を、また甘い香りが満たしてゆく。
仕方ない、原因が部屋に留まっているんだから。
いや。
仕方ない、なんて耐えられない。
そういってまた、窓を開ける。
いたちごっこを続けていると、あっという間に時間が過ぎた。

「では今から10分間テストを始める」
そう言って壇上から、子供達が詰まった教室を眺めていると、
いつもには見られない、彼らの内情が手に取るようにわかった気がして、
なんとも非常に興味深いと心の中でつぶやいた。
開始してものの3分だが、彼らの落ち着きの無い事といったら
餌を絶えずつつく雄鶏のように、
つついては、あちこちをきょときょとと視線を這わせてせわしない。
原因はわかっている。
甘い匂いの元凶、あの白い包みだ。
こっそりとブルーのリボンが覗いている。
それらは籠にひとつにまとめられ、部屋の隅に置かれている。
一応、勉強に集中できなくなってしまわないように、
気遣いで籠に目隠しとしてハンカチを一枚被せているが、
教室内にこもる匂いで子供達にはたちどころにばれてしまっているんだろう。
さっきからチラチラと、ハンカチを被せた籠を、皆が見ていた。
まったく。テストの時間だというのに。
普段だったらカンニング扱いだぞと注意したくなるほどのものだった。
だが、同じ男として気持ちはわからなくはない。
「おいそこ、よそ見をしない」と軽く注意して、ゆったりと椅子に腰掛けた。
時計を見る。
テスト終了まで、あと3分。
ふと……、彼らの視線が気になった。
テストに噛り付いている『フリ』をして、籠を覗き見ている奴じゃない、
その後ろや、いっこ飛ばした斜め後ろ。
(ほぅ……)
自分の口元が、にや、と持ちあがるのがわかった。
(あいつ、今年は3個は確実なんじゃないのか)
ほとんど確信めいた答えが頭に浮かぶ。
『あいつ』と呼ばれた少年の後ろで、
2人の少女が教室隅の籠でなく、彼の頭にそれぞれ視線を送っていた。
壇上から見る教室は、人物相関図のようでなんとも非常に興味深い。
時計を見る。
意外に進んでいた時間に「おや」と呟いてテスト終了の合図を口に出すと、
あちらこちらから「えっ?」とか「うそっ?」とか、
中には「マジかよ」なんていう驚きの声が次々に漏れた。
(この様子じゃ、今回のテストは期待できんな……)
教室の中は匂いだけでなく、今日は空気もどこか甘ったるい。

 

誰も居なくなった教室は少し、寒い。
あれだけ甘い臭いを放っていた白い包みは、ミラルドの手によって子供達に配られ、
部屋の中が甘くて仕方ないという事態から脱していた。
臭いが全て抜けたおかげで、寒いからと窓を全て締め切れる。
広い部屋にひとりで居ると、だんだんと夜の寒さが部屋の隅からにじみ出る様で
ペンを持つ手が冷たくなって、しまいには指が痛くなってしまう。
「紅茶、ここに淹れておくわよ」と、さっきミラルドがカップを置いて行った。
だんだんと冷たくなる私の指先を気遣ってか、それとも機嫌取りなのか。
「どうだか」
短く呟いて、温かいカップなどには目もくれず黙々とペンを進める。
紅茶は本の山の向こうの隙間に置かれていて、ひとくち、とすするには
手を曲げ、伸ばさないと届かない。
出したままの本が壁になって、紅茶を飲む為には相当邪魔になっていたのだが、
「だから次の本を出す時にちゃんとしまえば、そんなにならないって言ってるじゃない」と言われると、
つい「この本はまだ使うんだ。もう一度取りに行くなんて邪魔臭い。時間の無駄だ」と返してしまう。
とうとう、本のタワーになって、出されたカップの模様も見えないほどの巨大な壁になっていた。
一番下に敷かれた本は、使用頻度のその低さで
『皆の下敷き』という地位を確立していると言っても過言ではない。
これだけ使わないんだ、おそらくもう片付けてもいいとは思うのだけど、
「ほら、片付けた方が使いやすいでしょ?」と言われるかと思うと
やはり片付けるのはもう少し後でいいと、先延ばしにしたくなった。
お陰で紅茶の香りすら届きやしない。
そんなもの、構いやしないけれど。
「ミラルド先生、クラース先生、さよーなら」
ふと、そう言って帰った子供の言葉が耳に蘇ってきた。
そのお陰でひどく気分が悪い。
ガシガシと頭を片手で乱暴に掻き毟りながら、着々と赤いペンを動かしてゆく。
しんと静まり返った部屋には、プリントをめくる音とペンを走らせる音だけが響いている。
キュッという音1回で『丸』、キュッキュという2回の音で『バツ』
キュッキュ、キュッキュ……キュ、キュッキュ……。
点数を計算する、思った通りの結果だった。
用紙の端にバカでかく書いた数字を見つめ、溜め息をついた。
まったくどいつもこいつもひどいものだ。
たいして難しい問題を出したつもりではなかったが、どう見ても、明らかに平均点が落ちている。
原因は、わかる。
あの、白い包みのせいだ。バレンタインという行事のせいだ。

「籠、ここに置いておくわね」
さっきミラルドにそう話しかけられて「あぁ」と、窓に預けていた背中をはがした。
水色の空から一転、エプロンをまとったミラルドがすぐそばで立っていた。
胸当てのついた、ベージュ色のシンプルなエプロン、それが彼女には良く似合っている。
少し粉にまみれているが、そんな事ちっともお構いなしのようで、
そっとガラス細工でも置くように、出来あがったばかりのクッキーを置いた。
心なしか口元が綻んでいる気がするのは、多分上手く焼けたからなのだろう、
これは後が楽しみだとクラースは口に出さず呟いた。
籠には『入れる』というよか『詰める』という表現が近いくらいに
ぎっしりと白の包みが盛られている、やはり近くにあると、空気が甘い。
「焼いた分全部持ってきたのか?」
「そうよ?ここに置くと邪魔?」
「いや、別に」
そう答えて、自分の分も含まれているかと思うとなんとなく心がはずんだ。
「はい、これはクラースの分」
なんて、今ここで焼きたてを渡さない所を見ると、
渡されるのは恐らく授業の後かと推理めいた口元に手を当てる。
ひとつひとつを配った最後に籠に残ったひとつの袋、それを私の方に向けて、
「はい、これはクラースの分」
ふふん、そういうことかと口元が緩んだ。
ありきたりで使い古された手ではあるが、折角だ。気がつかないフリをした。
「なぁに?クラースったら、ニヤニヤしちゃって」
「いや、子供達に配る時が楽しみだと思ってな」
なんて、心にもない言葉を口にすると、「ほんとね」とミラルドも楽しそうにふふっと笑った。

時間なんてあっという間に過ぎるものだ。
楽しみだと待ちかねていた授業の終わり、
今はミラルドの前に男も女も長蛇の列が作られている。
皆、順序良く一列に並んでひとつひとつ袋を手渡され、
それぞれが「ありがとう」やら「すっげーいい匂い」やら言っている。
「みんな、お家に帰ってから開けるのよ」とミラルドが言うと、
「はーい」という元気の良い声が教室に響いた。もちろん途中で開ける奴もいるとは思うが。
(まぁ、私は皆が帰った後にゆっくりもらうさ)
と、腕組みをして彼らの姿を眺めていた。
籠からひとつ、またひとつと無くなってゆくのがカウントダウンのように思える。
もちろん子供もひとり、またひとりと居なくなり、教室がだんだん静かになってゆく。
ついに最後のひとりがミラルドから白い包みを手渡された。
嬉しそうに、へへっと笑って礼を言い、続いて「ミラルド先生、さようなら」
「クラース先生、さようなら」と頭を下げた。
「気をつけて帰れよ」なんて優しい言葉をかけてみたが、
本音のところは「早く帰れよ」という意味だったり。
籠には当然のごとく白い包みがひとつ余った。
あとはミラルドがこっちを向いて、こんな台詞を言うんだろう。
「はい、これはクラースの分」な〜んて。
まいったなぁと後ろ頭をカリコリ掻くと、ミラルドが体ごとこっちを向いた、
どこかそわそわした、心配そうな表情をしている。
今更そんな顔する事もないと思うんだがな、と思ったけれど、
言い出しづらいのか、一向に台詞を喋ろうとしないミラルドに合わせて、少し助け舟を出すことにした。
「おかしいな、なんでひとつ余るんだ?」我ながら、付き合いが良い。
あとはミラルドが言う、台詞はこうだ。
「違うのよ、これ……あなたにって作ってあるの。
だから……はい、私からクラースへの……バレンタインプレゼント」
思い描いて、心中イヒヒやらオホホやら、体をねじりたいくらいではあった。
けれど、ここはそれを表に出すまいと、ポーカーフェイスを貫いて、
じっとミラルドの言葉を待つ。
口元が開いて、不安げな口調でミラルドは言った。

「そうなのよ。人数分作ったから、余るはずなんてないんだけど」

ん?という違和感がクラースの前を駆け抜けると共に、
背後でバタンという扉を閉める音が響いた。
家には今、自分とミラルドしかいないはずだ。
くりっと2人同時に振り返ると、トイレのドアから少年が1人駆け出した。
「先生、トイレありがとう」
トイレを借りた礼を言った少年はぽかんとその場に固まる2人に目もくれず、入り口のドアに駆け寄っていく。
いつからいた? ぼんやりとそんな事を思いながら眺めていると、
ドアを半分開けたところでミラルドがあわてて少年を呼び止めた。
駆けよって、籠からひとつ包みを渡す。
「あぁ、よかった。もう帰っちゃったかと思ったわ。これ、今日バレンタインデーだから。はい」
籠に残った『最後のひとつ』を、少年の手に握らせた。
きょとん、としている。
少年も、自分も。
先に理解したのは少年だった。
少年は手元を眺めると「ありがとう」と満遍の笑みを浮かべ、
「ミラルド先生、クラース先生、さよーなら」と一礼をした。
これは一体どういうことだ?とこちらの混乱する頭を余所に、
自分が貰うはずだった『最後のひとつ』は小さな腕に大事そうに抱えられて
入り口のドアをくぐっていった。
隣でそれを見ているミラルドは、笑顔で少年を見送っている。
手まで振って、見送っている。
当然、籠の中には残りはもうひとつもない。
ひとつもだ。

これは一体どういうことだ。
「おい、ミラルド籠に1個も無くなってしまったぞ」
思いもかけない事にうろたえながら、なんとかミラルドに話しかける。
私はまだ貰っていないのだ、だからお互い思いもかけない事なはずなのに
「そうよ? 何言ってるのクラース。人数分作ったんだから当たり前じゃない」と
さも当然のように、不思議なものでも見るように、ミラルドは私を見つめ返してきた。
なんでだ。
私はまだ貰っていない。
「人数分作ったのなら最後に1個余るはずじゃないのか?!」
震える声をなんとか押さえ、言葉にすると、
え……? と、一瞬、ミラルドと私の間に妙な空気が流れたような気がした。
お互いがじっと見詰め合う形に自然となる。
私の『なんで?』とミラルドの『なんで?』が、お互いの間で重なり合った。
なんで?
なにが?
どうして?

その空気を1番始めに壊したのが『ぷ』という音。
続いて、ぷぷぷ、と手で押さえられた口元から、小さく空気が漏れていた。
ミラルドが、笑っている。
にやにやと、さも楽しそうに。
「なあに? クラースもバレンタイン、欲しかったの?」
ぐっと言葉に詰まる。
「だって、あなたいらないって言ってたでしょ?」
そんなばかな。
「いつ?いつ私がそんな事言った」
「あら、作り始める前に言ったわよ。クッキー人数分作るつもりだけど、クラースもどう?って」
なんだそれ、と思いながらも勝手に手の平が汗ばんでくる。
ぐぅ、と唇を軽く噛み締めた。
口の中がからからに乾いて、唾が飲み込みたくても飲み込めない。
あれは、そっちの意味だというのか。
「なぁに?欲しかったら欲しいってちゃんと言えばいいじゃない」
自分の顔にどんどん血液が集まってくるのを感じながら
「お前が変なふうに言うから勘違いを引き起こすんだ」
照れ隠しに、声を荒げた。

 

 

キュ、キュ……、キュポ。
ペンの蓋を閉めなおして、一息つく。ようやく採点が終わった。
バレンタインなどというくだらない行事のせいで、
平均点は格段に落ちていた。
ついでに、思い出していたらだんだん腹が立ってきたので
採点も少し厳しくつけてみたのも、平均を落とすのに一役買っていると思う。
口の中が冬の乾燥の為もあってかやたら乾く。
腹を立てていたから口の中が乾いたんじゃ、ない。
「ふん」
仕方がないので入れてもらった紅茶でも飲むかと、側にあった本を半分どけた。
温かいうちになんて飲んでやるもんかと、ずっと放ってあったので
渋く、冷たくなっているはずだ。
ざまあみろなんて、分厚い本を体をねじって横に除けると、
白い陶磁器に紅茶とスプーンにあとひとつ、褐色のかたまりが添えてあった。
クッキーだ。
ハート型のそれが、こっそりと、お茶請けにひとつ添えてある。
なんとなく、ミラルドの声が聞こえた気がした。
あんまり怒ってないで、それでも食べて機嫌直して、と。

「ミラルドの奴……」

ふん、と口元をほんの少しだけ綻ばして、小さなクッキーを半分だけ噛み砕いた。
私も少し大人気なかったかな、なんて思いながら。
ボリボリという音を立てて、クッキーは私の口の中で細かくなってゆく。
なかなかに、うまい。
「まったく……」
心の中で『このくらいにしておくか』なんて言ってみて、残りのクッキーを放りこんだ。

ひとつでは、どうも足りそうにない。

 

 

 

 

 

 


あとがき(反転)

霧夕です。
リハビリを兼ねてのバレンタイン小説、今年はクラミラです。
クラミラとか言いながら甘さほとんどないのだけど。
貰えるか、貰えないか、その間でモゴモゴしてるクラースさんが書きたかっただけでもあります。
ちなみに意識的に『匂い』と『臭い』を使い分けたりしてるんですが、
基準はクラースさんの気の持ち様で、
貰えるのであればいい『匂い』、貰えないようであればあまったるい『臭い』と
そんなでコロコロ変えてみたりしました。
そんな大人気ないクラースさんも、結構好きです。

あと、子供達に教えてるのはミラルドさんっぽいけれど、
クラースも非常勤みたく教えてくれてればなイメージがあるんですがどうなんだろ?教えないのかな?

文章いつも通り長いけれど、楽しんでいただけたなら……いいな!

それでは、ここまでお付き合い頂きありがとうございましたv

(2009・2・10UP)