まだ一日の始まりを告げる朝の光が届く前、しんとしていつもならば耳が痛くなるほどの森の中を、荒い息が一つ駆けている。
夜を司る梟も、朝日と共に一日を告げる鳥達も、この時間帯はまだ寝ているようだ。
動物だけではない、まだ来ぬ日差しに葉はきらめかず、吹かぬ風になびく事も無い……辺りはまだ白い寝息に包まれていた。
その中を少年は一人ひた走る。
目的地などは初めから無い。
もしゴールがあるとすれば呼吸によって上下する自分の胸が破れるその時まで。
少年は同じ場所を走りつづけた。

今の自分の姿を誰かが見たらなんていうだろう……切れる息の中、どさりと勢い良く草原の上に身を投げ出した少年はそう思った。
なんという醜態だ…そうなる事がわかっていたからこそ足を忍ばせて出てきたのだが。
今自分の姿を見たものはまず間違いなく口を開いてこう訊くだろう『どうかしたのか』と。
胸部は今までに無いほど大きく上下して、鼓膜の奥で嫌に心音が大きく響く……。耳障りだ。
呼吸をするのにもむせる始末なのだから、きっと口をそろえてそう言われるのは仕方ない。
なんでもない、どうもしていない、これはいつもの稽古だから、そう言い張るにはやはり説得力が無いだろう……仮に言い張ったとしても真摯な目でもう一度『どうかしたのか』と訊ねられるのが関の山だ。
背中に敷かれた草原から青い香りが漂っている。
自分の汗と草葉についた夜の露がじわりと自分の背中をぬらす。
張り付いた衣服が気持ち悪い。
しばらくそんなことを思いながら休息をとっていると、樹と樹の隙間からゆっくりとだが空が白んで新しい朝がやってくるのが見て取れた。
いや、たとえ目を閉じていてもまぶたに映る光のせいで一日が始まるのを感じる事が出来るだろう。
こんな話を知っているだろうか?人間には五感というものがある、視覚、聴覚、触覚、味覚、触覚、の五つの事だ。
人間はこの五感のうち大半を視覚に頼っているという、それは急に辺りが暗くなったりした時にこれでもかというほど思い知らされるのだが。
逆に言えば『人は普段から視覚以外の感覚はあまり使われていない』ということか、意識しないと使われない、あるいは大部分を占める視覚が使われていない時ようやく他の感覚が表立って使われるのか……さっきはこれっぽっちも気が付かなかった香りが目を閉じている時は感じられた。
かすかに香る甘やかな香り。
それが辺りに咲いている花の香りだと気が付くのに、なぜか彼は時間を要した。
それがなにかにとても酷似していたから…。
ふと何かを思いたち、身をよじり、側に転がる皮袋の中をガチャガチャとことさら乱雑に探り始める。
出て来たのは長細い白い箱。
だがそれがなんだかみすぼらしく見えたのはなぜだろう。
雑多に物が入った袋に放り込まれて少し角が減っていた事か、袋の中の物にかすったかでシュと筋が入っていた事か、それか、なにより箱自身を美しく飾っていたであろう薄紅色の細い布が、今はただ中身がこぼれない為だけにグルグルとただ乱雑に巻かれているだけだという事か。
結び目だった場所だけは自分の過去を主張するようにくっきりと大きなしわをつけていた。

「何が……ダメだったのかなぁ…」
少年はポツリ呟いた。
背中についた水滴は別段乾いてはいなかったが、もう胸の激しい動機はとうに無くなって、穏やかないつもの呼吸に戻っていた。
だが、起き上がらない。
そして相変わらず草のカーペットの上に大の字になり、まだ朝の来ない空を仰ぐ。
ポイと放られた白い箱が辺りに無造作に転がり、天を掴むように伸びた右手の中指から、銀色に輝く一本の光が下がっている。
純白の…石のついた、あのネックレスだ。
「もしかして、僕って…」
言いかけてゴクリと唾を飲む……聞きたくないのだ、たとえそれが自分が言った言葉だとしても。
あの時は目に眩しいほど光り輝いていた輝きが今は一体どこへやら、まだ日の光が出るにはまだ少し足らないのもあってか、透明に限りなく近い白は早くも曇りを帯びて輝きを失っている。
その宝石の隣では良く見知った十字の模様がチリチリと鈴のような金属音を奏でて揺れていた。
はじめは花のようなものもいいかと思っていた、だが店にある物はどれも大輪の花をかたどって、どうにも頭を縦に振れるはずが無い。
そんな時、彼の頭の上を風が吹き、鈴のような小さな花が揺れるようなチリンという音がした……それが、これだった。
まるで『探し物は私でしょう?』と言っているかのように彼を呼んだ。
そして彼もそれに応えた……だがそれなのに。
深い眠りについていた森もどうやら目覚めが近いらしい、白い寝息が薄まって新たな息吹が髪をなでる、淡く漂う白い香り……はじかれて振り向くと、薄くけぶるもやの中、少女が一人立っていた。
「……ミント、なんで」
チリンと鈴が 一つ呼んだ。

その日彼女はなぜかいつもと違って寝付けれず、何回も寝ようとして目を閉じてはそれが出来ず起き上がった。
全てはあの表情を見た瞬間に……。
受け取る事に少し困ったその時の優しい彼の悲しい顔を。
好みじゃなかったなら別にいいんだ、と不自然なほどに早口でまくし立て、あっという間に箱はしまわれ、そして彼もいなくなった……まだ彼女が一言も話す前に。
だが戸惑い、困った事、そしてそれを表面に出したのは事実だった。
その時の事が目を閉じると何回も、何回もリプレイされる。
今日の夜は、とても長い。
「ごめんなさい。あの、部屋を覗いたら居なかったので、それで……」
こんな時間に部屋を訪ねようとしたわけじゃない、それくらいの分別はついている、彼女は誰よりも女の子なのだ、だが……それでもいい、少しでいいから顔が見たい……それも彼女だった。
特に、こんな日は。
「一体、いつからそこに?」
滅茶苦茶に走り倒したせいで吹き出た汗がつたい、背に敷かれた草の露が染み、今度は冷や汗が背をつたう。
どこから見られた?どこから聞かれた?自然とごくり息を飲む。
まさか彼女がいたなんて。
「その、ネックレスを、指にかけた辺りから、ずっと」
長いまつげが伏しがちに一点を見つめる、彼の手だ、彼の手にかかる一筋の鎖。
さっきからそこに彼女が居た事に驚いた彼はそれをずっと握っていた。
隠す事も全て忘れて。
箱も辺りに散ったまま。
「うっわ!ちっ、違う何でもない」
「違うんです!!あの、そうじゃないんです」
慌てて箱をかき集め皮袋に押し込もうとした動きがその一言で全て止まった、彼はポカンと口をあけ目は彼女をじっと見つめる。
「好みじゃなかったとか、貰いたくなかったとか、そんなじゃないんです」
何がどうそうではないのかを、彼はじっと耳を立てて待った。
「好みじゃ…なかったとか、そんなじゃないんです。そのネックレスを出された時、私……本当に嬉しかった。……でも私は法術師です、意味の無い過度の装飾は、一般的に誉められたものではありません。それに…」
とたん言いにくそうに口を閉ざす。
「それに?」
「それに、その、すみません……その飾りについた銀の印。法術師の印をかたどったモチーフですが、とても美しい音色だと思います。でも、でもこういった神聖なものを安易に取り入れたような物は、その」
「誉められたものではない?」
そう言葉を続けると、ミントは小さくすみませんと謝った。
謝る彼女とは反対に彼はそれを考えながら、ただただ素直に納得する。
確かに彼女の言っていることは考えれば考えるほど納得のいくもので、困惑されたのも頷けた。
そしてそれと同時に彼の口から安堵の息が漏れる。
「なんだ、良かった。そんな理由で…てっきり僕からの物だから嫌がってるのかなとか考えちゃ…ってぅわアっ」
そしてそれと共につるり口が滑る。
「え…?」
「あ、え…い、いや、なんでもない!!そ、そうだじゃあケーキ食べなかったのもそんな理由があったんだ?」
慌てて自分の言葉を濁すよう、考え無しにまくし立てる。
そんなまさか、ケーキに、十字は、立ってはいない。
し…んとした空気が流れ、静寂がしばしの時を包む。
「あ、あれ?僕なんかまずいこと言った?」
ミントはうつむいて小さく何かを言っているが、あまりに小さいその声にどうにも聞き返さざるを得ない。
「え?ゴメンちょっと聞こえないや」
「ですから…最近ちょっと…た、体重が……あの」
あぁ、体重ねと、全てを理解した瞬間、彼は思わず吹き出し臆面も無く笑い始める、自分のとんでもない想像力とあっけなさに。
その声に驚いてか、あたりの止まり木で夜を明かした鳥は飛び立ち、笑われたミントは徐々に真っ赤になっていく、恥ずかしさか、それとも怒りか、何なのか。
もう白い寝息はとうに無い。
「あは、はははっ、あぁなんだそんな事だったのか。なぁんだ、そっか体重かぁ」
「ク、クレスさん、そんなに連呼しないで下さいっ!!それに、『そんな事』なんかじゃありませんっ!女の子にとっては一大事ですっ」
「はは、は、ごっ、ごめんよ。そっか一大事か」
『オンナノコは』そう続けようとした瞬間、先程飛び立った鳥達が一陣の風を森にふかせる。
白い香りが舞い上がった。
懐かしい、優しい香り。
僕は……覚えている。
昔嗅いだあの香り。
「……ね、ミント。君に、あげたいものがあるんだ」

「ちょっと向こうを向いていて。でも絶対こっちを見ちゃダメだよ?」
そう言われるがままにミントは草原に腰を下ろしていた。
夜の露が少し冷たかったがそれよりも柔らかな香りが心地よかった。
何の香りだろう?草とは少し違う香り?
「僕さ、ずっと昔からオンナノコってわかんないなって思ってたんだ」
プツリと音が紛れて消える。
「ほんとに小さい頃から思ってたんだ。おままごとの何が楽しいのかなんてわかんなくて」
またひとつ
「自分の家で散々見てきてることだから何を今更っていうのもあったし」
音がする
「走り回って僕達は遊んでいたからさ。つまんなかったと今でも思うよ?じっとしてる事とかさ」
一体何の音だろう
「僕ら男は近所の屋根に登ってみたりとか家畜を追いかけてみたりとかしてたんだけど、でもさ、今思うんだ、多分あの時の僕らの追いかけたもの」
何を今してるのだろう
「それってスリルだったんじゃないかなって。」
言葉の間にさっきから
「だからスリルの無いオンナノコの遊びがつまんなくて」
同じ音が響いている
「捕まるたびにやだなって。でもどうしても断れなくてさ。お陰で他の友達には出来ない事が出来るようになったんだ」
さっきから同じ間隔で。
「それ、なんだと思う?」
音が……止んだ。
「さぁ……?なんでしょうか?」
「これ、さ」
そう彼が言った瞬間彼女の長いまつげを何かがかする。
キャと小さな悲鳴をあげて、恐る恐る目を開けると首には白い花で編まれた首飾り…シロツメクサの首飾り。
「受け取って……もらえるかな?」

花についた夜の露が、ようやくやってきた朝日に照らされて
何よりも、どれよりも、白く、美しく、輝いていた

ネックレスよりも

宝石よりも

 

 

 

 


あとがき
ハイどもー、霧夕です。
書きあがりましたクレミン小説『飾らない君を白で飾ろう』いかがでしたでしょうか?
以前に拍手でクレミンを書いて欲しいという要望があったので確かにサイト内容偏ってるなぁという事で「よしゃ!あいわかった!」と書いてみたのがこんな感じだったりします。
いやぁ今までクレミンはあんましまともに書けていなかったので気合を入れてみたんですが…これは結構ちゃんとクレミンで書けてるんじゃないかなぁと。
むしろまともに小説っぽくてキセキ(ぇ〜)伏線くさいのが書けてるかな?と。
ただ両者共どうにもこうにも奥手なのでどっちかが頑張らないと?または誰かがちょっかいかけないと?とネタ出しに頭を悩ませました。
普段考えてないものは出にくいのですよ。
さてもう皆さんお分かりかと思いますがミントさんを最終的に飾った『白』はシロツメクサだったりします。
ネックレスでも指輪でもスカーフでもありませんね!もう思いっきり例のネックレスで引っ張って、さも前半で『あぁこの白で飾ろう〜の白はこのネックレスかぁ』と思わせれましたでしょうか?出来ていたら拍手喝采してやったり!ただ私が喜びます(何)
え〜?だって前半そんなの言わなかったじゃんとか言わない。
あ、ちなみにひとつ シロツメクサの花ですが実物は別段いい香りとかいたしません。
むしろ無臭?ですのであしからず。葉っぱのほうは皆さんご存知のクローバーですよね。
あとミントさんがネックレスに困った理由は半分くらい実体験。
ラリエット(まあとりあえず十字架のネックレスとでも思っていただければ結構)が流行った時に留学生の友達が日本人はそういった物をなんでもお金儲けにしているのが良くないというお話になるほど、と思わされまして。
異文化コミュニケーションですね。

それではここまでお付き合いくださりありがとうございましたv
(2004・9・27UP)