窓にそっと手を添えると手の平に闇の温度を感じた。
それはどこか上等の絹の冷たさに似ていて、アーチェは頬ずりでもするように窓に肌を寄せる。
部屋の中から見る空は、白い月が二つ重なりあって闇を淡く照らし。
光は窓からも優しく入り込み、彼女の白い首元をそっと撫ぜた。
陽にまだ焼けていない華奢な首元は、うっすらと浮かぶ寝汗でほんのりと輝き、
詰まるような甘さとけだるさを本人も気づかぬままに放っているようで、
どこかまとわりつくように空気が重い。

「そろそろ、来るかな……」
ほんのりと火照る身体の熱で、窓についた指の形に添って窓ガラスが白く曇る。
そっとそれを拭い、窓から広がる景色にじっと目を凝らした。
塀から少し距離を置いて、針葉樹は辺りを囲むように美しく等間隔に植え込まれていた。
以前に手を入れられてからどのくらいか、
木々はすっかり窓を開けて手を一杯に差し出す距離まで葉を茂らせている。
そっと音をたてないように鍵を回し窓を開けると、
宿の周りを取り囲む青臭い香りが一斉にアーチェの髪をやさしく掻き上げる様に
横をすり抜け部屋の中になだれ込んできた。
部屋の中が清浄な空気で満たされてゆくのに合わせて大きく胸を膨らませて息を吸い、またゆっくりと吐き出した。
頭の中の雑音がさざ波が返すように引いてゆく。
体のあちこちに散らばった意識が呼吸と共にゆっくりとひとつの束になってゆくのを感じながら、
しんと静まり返った意識の中で、ゆっくりと脈を重ねる音だけが規則正しく連なっていた。
闇にじっと目を凝らす。
飽きずそれを眺めていると、ほどなくしてチリンと小さなベルが鳴った。
ドアのベルの音だ。 とくん、とそれを合図に心臓が大きく鼓動を打ち始める。
それと呼応して、今更ながらに握っている窓枠の木の感触のザラつきに違和感を覚えた。
違う位置に手を置き直す。
吸いつく様な感覚を手の平全体に感じてぱっと手を放してみると、
さっきまでなんともなかった手の平に緊張のせいかうっすらと汗を掻き始めていて、
じっとそれを確かめる様無言で眺め、ごしりと白い寝間着にそれを擦り付けた。
とくん、とくんと心音が続く。
乗り出した身をそっと引き、隠れる様に腰を屈めた。
窓枠の位置まで頬を近づけ、こっそりと地上に目を走らせる。
針葉樹の樹の幹に隠れて青色が視界の端にちらついた。
どくん、と一際強く心臓が跳ねた。 張り付くように窓枠に身を近づける。
アーチェのすぐ間近で、僅かな仮眠から起き出したチェスターがくぁ……と眠たそうに欠伸をすると、
目じりの端から溢れだした涙が月の光で僅かに輝いた。
つられるようにアーチェも大きく口を開けかかった所で瞬間的に背中にヒヤリとしたものを感じ、 慌てて両手で口を封じ、くぁ……と出掛かった欠伸を喉の奥まで押し込めるようにして噛み殺した。
ゴクッと喉の奥のさらに奥まで欠伸が落ちこむと同時に、汗が頬を伝った。
気付かれたろうか?
どくん、どくんと落ち着く様子など見られない心臓の音が、やたらに大きく感じる。
服の擦れる音すら気取られそうで、音を立てない様に少しづつ、にじり寄るように窓枠に近づいた。
(……別に、もうこそこそしなくたっていいんだろうけど)
窓に手をついて、そっと眼下に視線を送る。
さっきまで起きぬけの眠たそうな顔をしたチェスターはどこへいったか、
自分の身体のパーツをひとつひとつ丁寧に曲げ伸ばし、
これから始める事の為に身体を温める事に余念がないようだった。
ほっと形にならないように息を吐きながらも、アーチェはうっすらと汗を掻き始める薄い筋肉に自然と目が吸い寄せられてゆく。
何だか弱そうだと思ったあのチェスターの体つきが、日を重ねるごとに確実に変わっていた。
すらりと伸びた腕についていた筋肉も、全体的にしっかりと身体について、
太くなったという訳ではないのだけれど、どこか、中心にある芯がしっかりと形作られてゆくようだった。
……顔つきもどことなく変わった。
睨みつけるばかりの切れ長の瞳が、笑う時にはさらに細く優しく伸びる事を知った。
アーチェの口から冬の朝に吐く白い息に似た熱い吐息が漏れる。
(やだ……アタシ何考えてんだろ……)
取り付いていた窓からゆっくりと離れ、背中に体重を預けた。
ベッドはぽすんと音を立てて、柔らかくアーチェの身体を包む。
その仰向けの姿勢のまま両手を天井にゆっくりかざすと、窓から差し込む月の光が優しくその輪郭を浮かび上がらせた。
手をひらひらと光に透かし、ゆっくりと何かを呟きながら一本一本指折ってゆく。
「ファイヤーボールでしょ、アイスニードルでしょ……」
そうやってひとしきり覚えた呪文の名前を呟ききると、今度は逆に指折った手を出来る限り大きくパッと開いた。
「んん〜〜〜っっっ!!!」
思い切り手と脚を天井に伸ばし、反動をつけてベッドの上へあぐらをかく姿勢で起き上がる。
(よし!)
フンと鼻を鳴らし足元に持たせかけたバッグを引きずりあげるが早いか、乱暴に紐を緩め、中に手を突っ込んだ。
しばらくぐちゃぐちゃと中を掻き混ぜていたかと思うと「あった!」と一冊の本を取り出した。
茶色の古臭い表紙の本はひと目で魔術書とわかる。
ぱら、とページをめくるとランプの油の臭いが染み付いていて、アーチェの鼻先をくすぐった。
闇に眼を凝らしていたのと同じようにじっくりと習得済みの魔術書を一文字一文字追ってゆく。
その本の中にまだ潜んでいる何かでも探し出すように、じっくりと文章に目を凝らす。
優しく差し込む月の灯りを手元に受けながら、頬を撫でる髪を掻き上げて呟いた。
「あたしだって負けてらんないんだから」
その言葉とは裏腹に、心は秘密基地を作る子供のように浮足立って、
口元はにやにやと、どこか楽しくて仕方が無かった。
















あとがき(若干反転)

日々特訓を重ねるチェスターを見て、何か感じるものがあったりしても良いかなと。
時期的には秘密の特訓がばれてからしばらく経ったくらいでしょうか。
ドキドキなのか、ワクワクなのか、気にはなるけど恋愛未満。


まぁ楽しんでいただけたら幸いですv

(2009/6/25 up)