月が、丸い。
屋根の上は月明かりによって照らされて、一面埋め尽くす小さな粒がキラキラと輝いて美しかった。
昼にはあんなに暖かかったのに。
温度差なのだろう。
昼の暖かさが急激に冷やされ、屋根の上で霜を作り出している。
シャリとそれを足で踏みながら、すずは闇に目を凝らすように街を眺め、
最後に丸い月を見上げるように眺めた。

 

 

    【 北風と屋根とミルクと頑固者 】

 

 

「あの、どこかですずちゃん見ませんでした?」

口元に軽くこぶしを添えながら、ミントはそこに腰掛けたひとりに向かって話しかける。
「んぁ? いいや、見かけてないけど」
部屋の中は茶色く薄ぼけた色の家具に囲まれて、チェスターはその1つに腰をかけていた。
いかにも重たそうな色のテーブルに肘をつけ、もう片方の腕は椅子の背を覆うように乗せられている。
ゆらゆらと、器用に椅子の後ろ足に重心を預け、片足でそのバランスを取りながら、
グラスに入ったソーダ水を一口含んでチェスターは答えた。
「そうですか……」
グラスの中の気泡は大分少なく、もはや弾けるほどの勢いも無くなっていた。
もう大分少なくなった薄い空色を一気にぐいと飲み干すと、テーブルにグラスの底を軽く打ちつけた。
「どうかしたのか?」
ぷるぷるっと金色の髪が首の周りで振るった「いえ、そういう訳ではないんですけれど」
衣服の隙間から冷えた空気が入ってくる瞬間がわかる。
少し開いた服の隙間や、襟元に開いた隙間を狙って、冷たい空気が飛び込んでくる。
そんな気温の今日、すずの姿が建物内に見当たらない。
外に出て行ってしまったのだろうか? こんな天気の日に。
(風邪を引いてなきゃ良いんだけれど)
心配そうに、ミントは自分の唇の先を軽く噛み締めた。
「私、もう少し探してみます」
「おう。こっちも見かけたら、ミントが探してたって言っとくわ」
ペコ、と白い帽子を下げて、廊下にパタパタという足音が響き、遠ざかってゆく。
それが廊下の端で消えるのを眺めながら、
チェスターはグラスに残った最後の一滴を舌先で受け取るように飲み干して、
ようやく椅子から立ち上がった。

 

 

あちらに声をかけ、こちらのドアを開けて、
長い廊下の先、一階を全て見終わったミントは最後に思い当たる一部屋を開ける。
そして開けるやいなや、ここねという確信めいた実感を持って立っていた。
実感は、思い当たる最後の一室だからというわけではない。
そうではない理由が、ドアを開けた正面で、激しくその身を舞わせていた。

場所は今日の宿の自分達の自室、ミント、アーチェ、すずの三人が眠るようにととった部屋。
その隣りはクレス、クラース、チェスターの男性陣の部屋だ。
先程、階段から近い順にノックをし、隣りの部屋からクレスが出てきたが
聞いてみると「すずちゃん? 見てないけど?」という返答だった。
どうやらこちらの部屋には来ていないらしい。
スン、と鼻を鳴らす。わずかだが、暖かな部屋に道具を磨く油のような匂いが溶けている。
「少し換気した方が良いですよ」と小さく注意を促して、ドアを閉じると、
その次の自分達の部屋のドアノブに手をかけた。

――冷たい。
指先に触れる冷たさに、部屋に誰も居ない事を感じ取りながらドアを開けると
自分が想像した以上の冷たさがビュウと真横を通りすぎた。
思わず首を縮める。
やはり誰も居ない部屋は暗く、寒い。
照明の点けられていない部屋は影ばかりに囲まれて、見た目にもずいぶん寒々しかった。
だが、それでも今日は天気が良いらしく、こうこうとした月の光が窓から降り注いで、
ミントは部屋の中を手探りせずとも容易にどこに何が置かれているか把握できた。
特に変わった様子の無い部屋で、カーテンだけが夜の強風に吹かれ、
ちぎれ落ちそうなほどに身を舞わせている。
ここだ。
部屋の明かりを順に点け、暖炉の灰を底から起こし、小さく燃えやすそうな木をくべた。
じきにパチパチと音を立てて燃え始めるだろう。
ついでに、汲み置かれた水をポットに汲み代え、燃え始めるだろう小さな火の上にかける。
そうしてからようやく窓の縁に手を添えた。
「すずちゃーん?」
返事は無い。
声が小さかっただろうか? 夜の街に遠慮しての事だったが、聞こえなくては意味が無い。
もう一度だけ。心の中で『うるさかったらごめんなさい』と謝って、もう少し大きめに名前を呼んだ。

 

 

への字に傾斜した屋根の上、そのてっぺんに立ち、すずはなおも月を見上げていた。
満月には少し足りないが、夜の闇との境目がいやにハッキリして、
周りの星もそれに合わせて、いつもより強く輝いているようだった。
何を考えるという訳でもないだろうが、こんな夜はどことなく人を感傷的にしてしまう。
すずもそんなひとりなのかもしれない。
唇から白く、細長い息が漏れた。
それは細長い線のように伸び、夜の空に掻き消えるようになくなってゆく。
ビュウと後ろから突風が吹いた。
くっと声は漏らさず、肩をいからせて襟に首を埋め、寒さに耐える。
後ろで縛っている髪が後ろから前になびき、頬を強く叩く。
首の後ろのリボンも風にさらわれ、リボンをほどく勢いで、ばさばさとなびいている。
最後に耳の横で鳴る風の音に混じって、自分を呼ぶ「すずちゃーん」という声が聞こえた。
居なくなった猫でも呼ぶようだ。
そう思いながら、特に何を反応するわけでなく突っ立っていると、
もう一度、今度はさっきより大きめに「すずちゃーん?」と名前を呼ばれた。
なんだろうか? じっと固まっていた筋肉を動かし、
ジャリジャリと屋根を滑らないよう気を付けながら踏んで歩く。
小さく背中を丸め、屈み込んで屋根の上から声のした自室の窓を逆さに覗き込むと、
そちらからもミントが顔を覗かせていた。
上を見上げていた所をみると、屋根の上に居た事がばれているようだった。
「なにかご用ですか?」
頭に血がのぼる。そんな態勢のまま返答をすると、ミントは「やっぱり上に居たのね」と
嬉しそうに手をぽんと合わせ、それから「特に用事は無いのだけれど」と続けた。
「すずちゃんこそ、こんな寒い中で何してるの?」
わたし――?
「私は、外の様子を見ていました」
「外?」
「はい、外に怪しい者が居ないか、屋根の上から眺めていました」
窓から身を乗り出しているだけでも容赦無く風がミントの髪を弄んでゆく。
顔に絡み付く髪を耳の横で押さえながら、ミントは震える体を片方の腕で掻き抱いた。
この少女は、こんな寒い中、一体いつから屋根の上に居たのだろう?
ぽつんとひとり屋根の上、夜の闇に囲まれて、じっと佇んでいる姿が浮かぶ。
それはなんとも寂しく、心細いものだった。
「ねぇ、すずちゃん。良かったらこっちで温かい物でも一緒に飲まない?」
窓の手すりを両手で掴む。
凍るように冷たい金属の温度が、手の平から腕へ、腕から体へとミントの芯へ伝わってゆく。
それでもそんな事は構わずに、なるべく屋根に近づこうとするように背を逸らした。
屋根の上に居る少女は、それの何倍も冷え切っているはずだ。
それを思うと、きゅうと身体ではないどこかが縮まってゆく。
寒さでは起こらないその感覚を、十分過ぎるほどにミントは感じた。
けれど、すずは顔色を変える事無く、そして言葉を濁すという事もせずに
「いえ、お構いなく」と、それを制した。
「私、同行させていただいている身ですので」
頑なに、すずは拒む。
この風吹きすさぶ中、手は赤く感覚すらわからなくなるほどになっているだろう、
耳だって、痛くてちぎれるほど冷たくなっているだろう、
それを思うとミントの心も同様に痛み、自然と頬の赤みは失われ、表情もどんどん雲ってゆく。
そんな事、しなくていいのに――。
そう、誰もが言うだろう。
ミントの立つ窓の奥では、暖炉の火がだんだんと大きさを増し、空気を徐々に緩めてゆく。
冷え切った身体を温めるためにと用意した湯がポコポコと気付かれずに沸いていた。
けれどすずは――。
「ええと、あのね、すずちゃん」
沸いては弾ける気泡のように『何かいい言葉』が形になる前に弾けてゆく。
薄い、桜色の唇を開けては言葉に出来ず、それでも何かを形にしようともう一度口を開ける。
暖炉のパチッという音に紛れて後ろでコトンという音がした。
「結構、頑固だよな。すずちゃんて」
えっ? とミントが振り返ると、さっき自分が出したより大きな声が顔の真正面からぶつかってきた。
喉の奥まで見えそうなほどに口を開け、更に声が通るように手を添えて、
ミントが覗く窓の数歩後ろから、屋根に向かってチェスターが声を張り上げた。
「おーい。すずちゃーん! ホットミルク作ったんだけど、一緒に飲まねぇー?」

夜の街は、静まり返るにはまだ早かった。
だが、平然と大声を出せるほど明るくも無い。
「チェ、チェスターさんッ」慌ててミントは窓からチェスターの方へ数歩駆け寄り、
自分の口の前で指を立て、ボリュームを下げてという風に、空いた片手を上下に振った。
それは片方の羽で一生懸命飛ぼうとする鳥のようにチェスターには見えた。
「まあまあ、そう硬い事言うなって」そう言いたげに、こちらも手を軽く前へと押すように動かす。
そうしていると、ミントという、人ひとり分の壁がなくなった窓から
すずの「いえ、私は結構です」という返答の声が響いてきた。
それはやはりミントの想像した通りのものだった。
やれやれとチェスターは腕を曲げお手上げのポーズをとる。
手の平を天井に向けて小首をかしげると、しょうがねぇなぁという、チェスターの心の声が聞こえてきた。
そしてテーブルに置かれたカップを通り過ぎ、今度はチェスターが窓の手すりに手を添える。
またもビュウと通り過ぎる突風に「わぷ」と細い目を更に細めた。見上げると意外に屋根が近い。
(ったく、こんなところにずっといたのかよ)
逆さにこちらを覗くすずの頬が、寒さで真っ赤に染まっている。
小首をかしげた。そしてもう一度チェスターはしょうがないなと肩を竦めた。
「オレとミントとすずちゃんとで三人分用意してあんだけどさ」
「いえ、私はいいです。余った分はどなたかで飲んでください」
チェスターの目がふうんと細まる。
「なんだすずちゃん、ミルク、嫌いだったっけ?」
そんなわけはない。チェスターは強くそれを実感していた。
そんな話は聞いた事が無い。
「いえ、ミルクは特に嫌いでは」
チェスターの背中を眺めるミントにも、すずの困った声が良く聞こえる。
「あの、ですから私はここで見張る役目がありますから」
ミントが1歩チェスターに近寄る。
その雰囲気にチェスターが気がついて振り向くと、ミントはすずに聞こえないよう
「さっきからあんな調子なんです」と小さな声で耳打ちをした。
チェスターは頷く。「なるほどね」そしてもう一度手摺をつかみ直した。
「じゃあさぁ、今度は俺がすずちゃんと交代って事で、そこで見張ろうか」
困ったのはすずの方だ。
「いいえ、ここはわたし1人で大丈夫です」
「そうもいかないって。こういうのは皆交代でするもんだろ?」
つん、とすずから見えない角度でチェスターはミントの腕をつつく。
さらにそれだけでは足らないかと顎までしゃくった。
「ほら、ミントもそう言ってるぜ」
クルと首だけ振り向き、チェスターがミントに目配せをし、ミントもそれを受けて頷いた。
「そ、そうですね。こういった事はやはり皆平等にするべきですね」
「そうそう、だからまずは俺とすずちゃんが交代な」
チェスターはそう言って、ヨッと手すりに足をかけようと片足を上げた。
あまりにもわざとらしくないように、いや、むしろわざとらしいくらいでも構わないかもしれない。
なるべくすずに見えるように、大股開きで足を上げた。
「わ、わかりました。降ります、今降りますから待って下さい」
屋根の上から、すずが一段と大きな声を張り上げた。

「危ないですから、お二人とも窓から離れて下さい」
そう言って部屋の中の二人を窓から遠ざけてから、
すずは屋根の縁を掴んで、そこから地面へ転がるように前転を仕掛けた。
両腕の筋肉ひとつひとつがピンと伸び、その継目が伸びきる感覚を節々に感じながら
すずはその小さな頭を勢い良く両腕の中にくぐらせた。身体が屋根からフッと消える。
手だけを屋根の縁に残し、すずの小さな身体は空中に投げ出された形になる。
手を放せば一瞬で地上に真っ逆さま。
2階建ての窓より高い屋根の上から、勢いをつけて地表に落ちればどうなるか、
外からこの瞬間を見ている者でもいれば、たちまち金切り声を出して叫びだし、
なんだなんだと現れた人で、あっという間に宿の通りは埋め尽くされるだろう。
前転の反動で、腕の筋肉が伸び、胸が大きく反る。
足をピンと姿勢良く伸ばし、鉄棒でもしているかのように、
そのまますずは屋根を掴んでいた手を放した。
窓に足から飛び込み、勢いをつけていたはずがそれでも音も無く着地する。
膝を使って音を吸収する技がすずの身体に染みついているから出来る事なのだろう。
外の冷たい空気から一転、暖かな空気がつまさきからすずを迎え入れた。
驚きの表情でミントは手を口にあて、チェスターはすずが反動で屈んでいる間に手早く窓を閉めた。
ジャッという音を立て、こうこうと部屋の中を照らす月を、分厚いカーテンが遮った。
「はい。今日は見張り終了〜、終了っと」
そんな台詞を口ずさまれてもおかしくない空気の中で、すずは閉められたカーテンを横目に見ていた。
しかしチェスターはそんな事など気にもせず、テーブルに乗るカップをひとつ持ち上げると、それをすずに「ほい」とよこした。
「ありがとうございます」
すずも礼をして大人しくそれを受け取る。
両手で包むように持つと、カップの中のミルクが冷たく冷え切った手をじんわりと温め、
絡まる様に冷たく硬直した指をゆっくりとほどいてゆく。
ふぅと口をカップの縁に近づけると、ミルクの香りの白い湯気が鼻先を掠めた。
ひとくちすする。
冷た過ぎず、熱過ぎない温度がすずの喉を潤してゆく。
にっこりとミントはそれを見ながら、側にあった椅子を暖炉の前に備え付けた。
「すずちゃん冷えたでしょう、よかったらこっちで温まらない?」
カップに口を近づけ、すずは上目遣いにミントを見る。
にっこりと真正面からの笑顔に迎えられ、ぱっと反射的に視線をカップの中に戻した。
寒さで赤くなったのとは違う赤味が、すずの頬に、本人も気付かぬほどわずかに差していた。
ホットミルクをもうひとくちすする。
窓の側で立つチェスターの柔らかな視線が視界に入る。
喉を通ってゆく温かさを感じながら、すずは吐息とも溜め息ともつかない息を吐き出しこう言った。

「まったく。お二人とも言い出したら聞かないんですから」

「え?」とミントとチェスターはきょとんとした表情を浮かべ、それからゆっくりと見合わせる。
「どっちが」とくしゃりとチェスターは笑い、
ミントも手を当てクスッと笑った。
それからもう一度見合わせて、「ねぇ?」と言いたげに肩を竦めた。

ミルクの次は暖炉、暖炉の次は毛布が、すずを温める順番を待っていた。

 

 

 

 

 


あとがき(反転)

屋根に立って月を見上げるすずちゃんと、屋根から下りる所が書きたかった!

なんとなくすずちゃんって素直ではあるけれど、結構頑固じゃないかな?と思って。
むしろ忍者という生き方自体がそんな気がしなくも無いのだけれど。
盲目的に意思が固いというか。
あとミントやチェスターも、こうと決めたら結構頑固だと思うんですよね。
世話焼き始めたら止まらなさそう。
まぁそんなことを言い始めたらパーティ全員が頑固者集団になってしまいそうなんですが。
私的に珍しい三人組ですが、もりっと楽しく書かせていただきました。

ホットミルクや暖炉のあたたかさ以上に、すずちゃんには『ひとのあたたかさ』を
たっくさん貰ってたらいいと思います。

では、長文ここまでお付き合いいただいた方々どうもありがとうございましたv
ちょっとでも楽しんでいただけたら幸いです♪

(2009/04/04 up)