「ハァ…ハァ…ハァ…ハ…、ケホッ!ケホッ!!…ハ…ッ…。」
木の葉の擦れる音、動物達の声を掻き分けて…少女はただ一人咳き込みながらも鬱蒼と茂るこの奥深い森を、どこへとも無く一心不乱に駆けていた。
…その幼い顔立ちは齢を隠す事などせず、走り抜けたせいだろう…顔は真っ赤に染まっていた…。
唇を真一文字に結び、眼前を見据えると言えばいいのか、それとも目に映る景色に他の誰にも見えない何かを映しているのか…鋭い目つきは何もかもを射抜いている様にさえ思える。
まだ昼を過ぎてしばらくだと言うのに日の光の届かぬこの場所は、時間と言う概念を忘れてしまったのか…それともこの場所に迷い込む『何か』を惑わせる為か、暗闇はどこまでも果てしなく続きその大きな口を開く…。
彼女の走るこの場所も、彼女のその表情も、誰一人として気配の無い雰囲気も…何もかもがその小さな体には不似合いだった。

『ねぇお母さん浴衣出して浴衣ぁ〜!!』
『もう…しょうの無い子ねぇ…まだお祭りは明日だって言うのに。』
『だって早く着て隣の正ちゃんに見せに行きたいんだも〜ん!!』
『はいはい…しょうがないわねぇ〜。』
そんな会話が自分の目の前を通って消える…側の池には鯉が涼しそうに泳ぎ、さっきから飛びまわるトンボはしきりにその尻尾を水面につけてはまた飛び立つ…小さなえんじ色の装束は同じく小さな岩場に腰掛け、何を思ってか口を開く事は無い。
ただひたすら視線だけに通りすぎる親子を映すのみ。
抱えこんだ膝を解き小さな手のひらを眺めると、本来ならば歳相応にぷっくりと白く柔らかいはずの手の平が…土にまみれて浅黒く、指の節には豆やタコ、そして太く深いしわに切り傷の跡が何かを彼女に主張するように広がっている。
ギュっと一度握って開きなおしてもその跡はくっきりと消える事などありはしない…。
自分の背中を眺めてみればそこには少し丈の短い本物の小刀…。
ポケットをまさぐってみても出てくるのは飴玉などではなく黒く小さい携帯用の丸薬や火薬袋…。
戻した視線の先には、もう親子はとうの昔に見えなくなり…笑い声だけが向こうの端から流れて消えていた…。
楽しそうな母と幼い娘の笑い声だった…。

「っ…!!ハッ…!」
大人の両腕でも一回りは計りきれない程の太さの木々の群れを走り抜け、ただひたすらがむしゃらに漆黒の闇へと身を溶かす…辺りにはもう樹など無く、ここには竹が天に尽きが無い事などお見通しのように空に向かって果てなくひたすら伸びていた。
鋭く光る瞳が狙うは老いた竹一本!
「やっ!!」
ぐっと懐に入れた腕、土を蹴り上げ舞う体、腕の先からは闇に紛れて飛ぶ影三本。
…ビュッ!…ガッ!!カッ!…、…。
帰って来たのは二つの音…残った一つは地面へと音も無く突き立てられていた…。
「っく…ゴホッゴホ!!」
走る事のみを思ってかカラカラになったことも気にしなかった喉が咳を立てて崩れ落ちる。
うなだれた頭は伸ばした栗色の髪で覆われ、表情は誰にも確かめる術など無い。
ゼイゼイと不足している酸素を取りこもうとしている自分の呼吸の音が頭に森に妙に響いていた。
『ねぇお母さん浴衣出して浴衣ぁ〜!!』
自分の呼吸のみが響いていたはずの頭に幼い声が不意に響く…先程聞こえた声とは違い…不思議と聞き覚えのある声…もっと幼かった頃の自分の姿が影に重なっては薄れ、また濃さを増す…。
「お祭り…ですか。」
流れゆく風に頬を撫でられ自然とこぼれ落ちた自分の言葉に我に帰り、下唇を噛み締め直し頭に浮かんだ色々なものを一つを残して振り払う…。
早く一人前の忍者になると言う事…そう、望まれている事を。
「…っく。まだ、まだまだ…。」
もたれていた若い竹から身を起こし、刺さったままのくないを引き抜く。
ひとつ引き抜き…ふたつ引き抜き…、最後の三つ目落ちて大地に突き刺さったくないに手を伸ばしかけた瞬間、消し去ったはずの言葉が控えめながら湧き上がって、小さな頭を一色に染め上げる。
引き抜こうと伸ばした手を爪が食い込むくらいにギュッと硬く握り締め、湧き上がった言葉も思いも一緒にその手に握りつぶす。
ふたたび開いた彼女の手の平が掴んだのは…落ちて汚れた一つのくない…それはただ鈍く冷たくひっそりと光るばかりだった…。
まるでそうなる事をさも当然に望むように…温かみはそこにはありはしなかった。

 

 

一体それからどのくらい時間が経ったか、日の光は大分傾き空を燃えるような赤で染め上げていた。
いつもそうであるように木から木へカラスは飛び立ちねぐらへ帰る。
それは鳥も人も変わりはしなく、小さな少女は日を背にし影を引き連れ歩いていた…出かける時は美しかったえんじ色はひどく汚れてくすみ、所々引っ掻けてしまったのか小さな破れ跡が見え、汗を拭ったその額は泥で汚れていた…。
小さな体にくっついて引き連れた影は大きく引き伸ばされ壁に当たって曲がって映る、辺りに建つ家の窓からはご飯の炊ける香りと笑い声が流れて消えた。
「すず。」
小さな高い鈴のような声が後ろから少女の名を呼んだ。
振り返ってみると紺色の着物に身を包んだだいぶ腰の折れた女性が一人縁側に座ってこちらにおいでおいでと手をこまねいていた。
「あ、お婆様…どうも…。」
ぽんぽんと側にあったもう一枚の座布団を叩いて少女がそれに座るのをうながすと、一瞬だけキョンとした表情を見せた少女は自分の格好が汚れているから…座布団が汚れてしまうから…と、そう言ってその場に立ち尽くす。
そんな様子にクスリと笑い、さもその言葉が聞こえていなかったかのようにポンポンと座布団をふたたび叩く。困ったのは栗毛の少女。
え…と、と困った様子を見せていたのだが、なおも見上げる柔らかな笑顔と相変わらず『ここに座れ』と言って聞かない座布団を叩く手に負けて…泥や木の葉や砂埃など、その身についた汚れを落とし、それでも座布団を汚してしまう事を気にしてかちょこんとその隅に腰を下ろす…。
しかし座ったその姿はお雛様のように行儀が良く、同じくらいの歳の子ならばすぐに足を投げ出したり、どすんとまるでしりもちの様に座っただろう…すべては徹底した教育のせいかと思われた…。
幼い頃からの忍者の里を背負う者としての教育だ。
すずの両親、銅蔵とおきよだけではない…知らず知らずに里の大人もすずをただの一人の子供としては扱わなくなっていた、そしてそれは彼らの子供にも自然と伝わり…すずは同い年の子供達、自分よりも年下の子供達にも見えない壁を作られて自然彼女は一人となった…。
忍者としてそれは良い事なのかもしれない、しかし幼い少女にはどうなのだろう…?
それは彼女にしかわかりはしないこと…。
「すずや、今日も修行で疲れているんだろう?おはぎがあるから食べておいき…。」
すっと出されたのは抹茶色の少しざらざらした皿に乗せられたあんこのおはぎ…くたくたになるほど駆けた体に空っぽの胃、目に映るそれはこの上なく美味しそうに見えコクンと自然に喉が鳴る…だが自然と出てきたその主張とは反対に、彼女の口ら出てきたのは断りの言葉。
「いえ、お気持ちはありがたいのですが、もうこのように日も暮れておりますゆえ家に帰れば夕飯が待っております…ですので申し訳ありませんが…。」
「そ、れ、に、他の人からは何も貰ってははいけない…そう言われているのでしょう?」
にこりと笑った老婆は何もかもお見通しというように指を立てる。
確かに夕飯があるので間食できないというのも本当の事なのだろう…だけれどもいつからか彼女は好きだった物を出しても、何を出しても、例えそれが空腹極まりない時でさえも決して手をつけようとはしなくなった。
それが次期頭領の後継ぎだから…幼いその身を毒薬などから守る術だから…。
そしていつしか父をお父さんと呼ばなくなり、母をお母さんと呼ばなくなり…そしておばあちゃんとはもう呼んではくれなくなった…。
しかしそれらが一体どのくらいの子供らしさを無くしただろう…?
一体どのくらいのものを手を伸ばしては諦めたのだろう…?
恵まれるとは一体どのような事なのだろう…?
次期頭領の子供として生まれ落ちた命…いつかは頭領を約束された身…はたしてそれは恵まれた事なのか…。
それはやはり彼女にしかわからない…だけれどもいじらしいほどのその姿は老いた瞳には不憫以外の何者でもないよう映っていた。
「すず…お前は両親や里の皆の為にも早く一人前の忍者になる事が一番良い事だと思っているのでしょう?でもね、それは間違ってはいないけれどこれだけは覚えておいて?…私は、私達はね、銅蔵やおきよだってそうだけれど…何よりも一番に願い、一番嬉しい事は、お前が早く一人前になることよりお前が日々健やかに優しく…そして強くに育ってくれる事なんですからね…?…無理をして、自分を殺す事じゃない…そうでしょう?」
クシャっと撫でた柔らかい髪…生まれてしばらく経った頃よりもだいぶ質感は変わっていた…だけれどもそんな事は関係無い…大きく輝く愛らしい瞳にほんのり染まったりんごの頬…その姿は破けて汚れてボロボロになっていようとも、その手がガサガサになって汚れにまみれていようとも…全てが愛しい孫だった。
それだけで十分だった…。
「おばあ…ちゃん…。…わたし、おはぎ食べます。ううん…食べたいです…もらっても…いいですか?」
一人前の忍になる為に…と、ああなってからまだ慣れないせいかたどたどしく自分の気持ちを外に出す姿…まだ少し恥ずかしそうにうかがっていた。
「えぇえぇ…たんとおあがりなさい。それはお前の為に作ったものなのだから…。ただし、ご飯はきちんと入る場所を残して、ね?」
ニコリと笑い合うその姿は、昔見た頃と何も変わらない…純真無垢なものだった。
ただあの頃は口の端にあんこはついてはいなかったけれど。
「おばあちゃんのおはぎ…とても甘くて…美味しいです…。」

 

何度も諦めて空を掴んだ手…ようやく温かみを手に入れた…

 

 

 


あとがき
どうも、霧夕です。
初・すずちゃんメイン小説いかがでしたでしょうか?
夏休みに入りさて次は何を書こう…と思ったところ『お盆』→『田舎』→『おばあちゃん』という発想の元から膨らませてみました。
よくよく考えてみればウチではほとんどすずちゃんは書いていなかったので文体をどう書いていいのかが難しかったです。
今回は『冷たさ』と『温かさ』をコンセプトに書かせていただきました。
しかし可愛らしいですよね…すずちゃんvまぁどのキャラも皆好きなのですが。
このお話でちょっとでもほんわかしていただけたのなら幸いです。
ちなみに『恵まれた環境かは当の本人しかわからない』というのは私もそのままそんな気持ちだったりします。
ハタからみていくらお金持ちでも不幸な人はいるし、そのまた逆も然りです…いや個人的意見なので一概にそうだとは言い切れませんが。
ま、人生色々自分を幸せにするのはやはり自分という事で。

それではここまで読んで下さった方々へv
どうもありがとうございました〜。
(2004・7・26UP)