外から1歩屋内に足を踏み入れると、予想をしていたよりはるかに温かい空気が自分達を出迎えた。
「うぅ〜っ、あったかぁ〜い」
冷え切って冷たくなった指先が、だんだんと室温で解けてゆく。
じわじわと回復する血流に指先をほんの少しかゆくしながら、
それまでさしていた傘を小さくすぼめると、
傘の表面についていた水滴がボタボタと床に水溜りを作っていった。
「ほんっと外、寒かったねぇ〜」
身体を小さく身震いさせながらアーチェは言った「あ〜ぁ、今日は1日こんな感じかなぁ?」
「どうでしょう? 雲はまだ切れる様子は無かったので、まだ少し続きそうですが」
隣ですずがさしていた一回り小さな傘がたたまれてゆく。
透明なビニールに、ふちを赤で模様をつけた子供用の傘。
それがすずの小さな身体に無性に似合って、
もしそこに緑のカエルを模した長靴があれば間違い無くアーチェは履かせただろう。
いや。
むしろ靴だけでなくレインコートも全て着せて、雨の日仕様に着替えさせても可愛らしそうだ。
宿に戻って寒い外から開放されたのはいいけれど、
傘をささなくて良くなったのがなんだか少し勿体無い気がして、
アーチェは不満げに唇をわずかに前に突き出した。






    『 片方をずっとその腕に 』







小さな手は同じく小さな傘を手際良くたたみ、それを傘立てに放り込む。
傘立ての底は金属の軽い音を立て、当たった傘は表面に付いた水滴を落とす。
「それよりチェスターさん大丈夫ですか?」
小さな手は側に立て掛けてあったもう1本を手に取った。
薄炭色の大人用の傘。
それは、トントンと先を床に数回打ちつけるだけで、
床に大きな水溜りを作る事は無かったけれど、じわじわと十分な水分を広げてゆく。
チェスターをじっと見上げるすずの表情は一見普段と変わらないように見えた。
けれどもそれを良く見ると、ほんのり薄暗い空と同じように曇っているようで、
思わずチェスターは頬笑みと共に声をかける。
「心配すんなって」
しかしそれは、それ以上に自分を心配するすずが可愛くて仕方ないと、
だらしなく頬を緩ませているようにしか映らないようで。
見ているアーチェの口には苦笑が漏れる。
「でも予想外に降ったなぁ」
出入り口のガラスに映る空を見上げ、自分の上着にチェスターは視線を落とした。
びっしょりと濡れた布を指先でつまむと、張り付いていた服がテントのように身体から僅かに隙間を作る。
「流石に染みて気持ち悪いから、早く着替えた方がいいかもな」
先に続くロビーから一番離れ、チェスターは噛みしめるような苦笑いを浮かべ、手際良く自分の袖をまくる。
すっと片方の手を手刀のようにし、腕の表面についた水滴を皮でも削ぎ落とすように撫でる。
すると身体についた水滴が、いくつかの飛沫になって床に線を作った。
けれどそぎ落とすその端から、衣服から垂れる水が腕に一直線の筋を作ってゆく。
「あ〜ぁ」と、軽く上着の裾を軽く握ると指の間から水が手の筋を伝って肘から落ちた。
「ちょっとちょっと、すごい水じゃん。大丈夫? 風邪ひいちゃわない?」
「そうですよ、早く部屋に帰りましょう」
うん? と顔を上げる。そんな二人の姿は何かに似ている。なんだろう?
「ああ」
わかった。
つばめの雛だ。どこかピイピイと、うるさくも愛おしい。
「はいはい、と。床汚すから、も少し絞ったらな」
と、最後まで言い終わらない所で「おや」と絞る手が止まった。
らせん階段の手すりにそっと手を添えて、トントンと小気味良い足音が下りてくる。
心なしか、リズムが若干早い。
「あっ、皆さんお帰りなさい」
「よぉ、ミント。なんだか急いで、どっか行くのか?」
階段を一段歩くたびに金色の髪が上下に揺れる。
「クレスさんを迎えに行こうかと思いまして。外の雨、大分ひどそうですね」
最後の一段を小気味よい音で降り終えたミントは、チェスターの濡れた全身を見て眉をハの字に寄せた。
「大丈夫ですか? あの、良かったらタオルお部屋にあるんで使ってください」
「サンキュ」とチェスターが短く礼を言うのに少し被って、アーチェが口を開く。
「あ! ミント!」
「はい?」
振り向いたミントの正面で、アーチェは握っていた傘をぐいと差し出した。
「今から行くんだったら丁度いいや。これ、あたし使ってたけど持ってきなよ」
鮮やかな薄ピンクの傘をミントが受け取ると、
閉じられていない傘の表面からはさっきまで受け止めていた雨粒がポタポタと落ち、
床にいくつかの模様を描いていた。
「あと、クレス迎えに行くならもう1本いるよね。えっとじゃあ……、これかな?」
傘立てに立てられた沢山の傘の中から探し出すように1本を引き抜く。
アーチェが薄灰色の傘を手渡すと、ミントは笑みを浮かべて礼を言った。
「ありがとうございます。じゃあ、私。ちょっと行ってきますね」
そう言ってミントがドアを押し開けた。




そうして出て行くのを眺めながら、アーチェはしたり顔を隠そうともせず、
にんまりとドアに阻まれた背中に向かって呼びかける。
「気をつけてねぇ〜」
すると、今度は自分の背後から「アーチェさん」と小さな声に呼びかけられて
「ん?」と、ゆっくり振り返る。
見下ろすと、さっきから黙っていたすずが、そこから自分を見上げていた。
それも、とても不思議そうな顔をして。 「アーチェさん、さっきのあの傘」
あの傘。
あの薄灰色の傘、あの水をわずかしか落とさなかった傘、
すずが手に取り、傘立てに放り込んだ傘。
『あの、傘』 そのフレーズで、アーチェとチェスターは全てわかった顔で二人見合わせると、
すぐさまアーチェがぴょこんとドアから外を覗いた。
雨で大分暗い外の景色がそこには広がる。
その中に白い服、傘を持って行ったミントは見えなかった。
それを確認するや否や、とたんにアーチェの口元がにやと持ちあがった。
ぽん、とドアから離れる。にやにやとした笑みを隠そうともせず、 アーチェはすずの頭に手を伸ばした。
「ふふん。いいから、いいから」
ぽんぽんと撫でる茶色の髪がほわんと柔らかく跳ねる。
手の中にそれを感じながらにたにたと口元が緩むアーチェに変わって、
まったく、しょうがねぇなぁとでもいうように、くるりとチェスターが背を向けた。
「はやく部屋に戻ろうぜ。なんだか寒くなってきやがった」
そうして震えるしぐさでチェスターが両腕を抱くと
その声に反応してすずの視線がアーチェからチェスターに移り変わった。
小さな仕草はチェスターを心配してくれている事実を十二分に物語り、またもチェスターの頬は緩む。
その横でアーチェはしょうがないなぁという風に小さく肩をすくめ
「そそ。すずちゃんもそんなの気にしてないでお部屋に行こ! 早くしないとすずちゃんだって風邪ひいちゃう!」
と、すずの背中を強引に押した。











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まだもうちょっと続きます…

全部書けたらひとつにまとめようかな…。

(2009/7/23 up)